「最初で最後」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 10:12 UTC 版)
「ヨーゼフ・シュトラウス」の記事における「「最初で最後」」の解説
1849年、父ヨハン1世が死去すると「ヨハン・シュトラウス」はただ一人になり、それまで親子に自然と分散されていたウィーン中の仕事が兄ヨハン2世に集中するようになった。兄は連日連夜の演奏会と作曲活動で身が持たず、しばしば再起不能かと思われるほどの重病に倒れた。 医者たちはヨハン2世に長期の静養を取らねばならないと口々に診断した。母アンナはヨハン2世の代役として(少なくとも一時期は)ヨーゼフにシュトラウス楽団を指揮してもらわなければならないと考えるようになり、ヨハン2世もこれに同調した。 物静かな性格のヨーゼフは、自分が兄のように華やかな世界での仕事ができるとは思えず猛反対したが、結局は「シュトラウス家のため」と迫る母と兄の説得に折れた。1853年7月23日、ヨーゼフは療養中の兄に代わって「カフェ・シュペール(ドイツ語版)」で指揮のデビューを飾ることになった。当日、ヨーゼフは恋人で未来の妻であるカロリーネ・ヨーゼファ・プルックマイヤーに宛ててこう手紙を書いている。 「 Das Unvermeidliche ist geschehe. Ich spiele zum ersten Male beim "Spelrl": Ich bedaure vom ganzen Herzen, das dies so plötzlich geschehen――(日本語訳)避けられない事態が起こりました。きょう私は初めて”シュペール”で演奏します。こんなことになってしまうなんて、心の底から残念でなりません……。 」 ヨーゼフはやがて指揮活動だけでなく、兄に代わって新しいワルツを作曲せねばならない状況に陥った。ヨハン2世は、年に一度のハーナルス教会祭の際に演奏するためのワルツの作曲を引き受けていたが、その依頼をほったらかして長期の静養に入ってしまった。そうこうしているうちに8月29日の演奏予定日が迫ってきたため、やむなくヨーゼフが作曲を手掛けることになった。こうして作曲されたのが、ワルツ『最初で最後』(作品1)である。 『最初で最後』というその曲名からも、当時のヨーゼフの胸中を容易に察することができるが、この『最初で最後』が「卓抜で、独創的、メロディアスなリズム」と新聞に評され、かえってヨーゼフへの人々の期待を高めてしまった。このワルツは6回もアンコールされ、翌日の多くの新聞は「これがヨーゼフ・シュトラウスの最後の作品にならないように望む」などと結んだ。
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