「最強馬育成」競争とダビスタブーム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 17:25 UTC 版)
「ダービースタリオン」の記事における「「最強馬育成」競争とダビスタブーム」の解説
「ブリーダーズカップ (BC)」モードが導入されて以降、他のプレイヤーが生産・調教した競走馬と能力を競う公式・非公式の大会が各所で開かれるようになり、これらの大会で良い成績をあげる「最強馬」を作ることを目指すプレイヤーが数多く出現した。これらの大会で好成績を収めるためのレベルも年々上昇した。 1990年代中頃にその人気は全盛期を迎え「ダビスタブーム」とも言える状況となる。当時は亀谷敬正など「ダビスタの馬の生産(及び生産理論に関する原稿執筆など)だけで飯を食う」事実上のプロゲーマーが複数現れたほどである。競馬雑誌でも同じアスキーの「サラブレ」を始めとして多くの雑誌がダビスタの連載ページを設け、しまいにはダビスタ専門誌「ダビスタマガジン」(メディアファクトリー)が創刊されたことからも当時の人気ぶりがうかがえる。一方で、当時とどまるところを知らなかった最強馬育成を巡る競争や論争の激化の中で生産方法・プレイ思考の相違が生じ、最強馬育成を目指すユーザーの中でも同じ価値観で遊べる楽しみ方が模索されるようになっていった。 また全盛期には、「種付け無料の種牡馬の産駒限定の最強馬決定戦」「最弱馬生産を目指す」などの特殊な遊び方も数多く考案され、たとえば「サラブレ」誌上では須田鷹雄らによって最弱馬育成企画が大々的に展開された(その模様は「もうひとつのダビスタワールド」(アスペクト)として書籍化された)。 ただ、このようなブームも1990年代終盤になると徐々に下降局面に入り、数年も経たぬ内に競馬雑誌のダビスタ関連の記事や連載ページも消滅し、折からの出版不況も重なって競馬雑誌自体も多くが姿を消した。亀谷らダビスタのプロゲーマーの一部は競馬評論家やゲーム雑誌のライターなどに転身していった。 また、アスキー時代に本シリーズの開発にかかわった金田剛によると、1990年代当時のアスキーは本シリーズの新作を毎年発売しないと成り立たないほど経営状況が厳しかったとされている。金田は2021年のチャットインタビューの中で、自分を含めたアスキーのスタッフ総出でダビスタの新作に取り組んでいたと振り返っており、「 開発作業がピークを迎えていたある日,いきなり社長に呼び出されたんです。『おい,もしコレ(ダビスタの新作)の発売が遅れたら,うちは潰れるからな』って(笑)。」とも話している。 ただし、ネット上では2010年代に入っても有志によるブリーダーズカップが開催されており、各シリーズ毎にプレイヤーはそれぞれの世界で根強く遊ばれている。
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