「最初のプレジデント」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/09/10 01:00 UTC 版)
「ジョン・ハンソン」の記事における「「最初のプレジデント」」の解説
ハンソンが「忘れられた」初代大統領であると最初に主張したのは、セイモア・ウェミス・スミスの1932年の著書「ジョン・ハンソン - 我々の初代大統領」(John Hanson - Our First President)である。 それにも拘らず、ハンソンは公式には連合会議の第3代議長であり、自分では議長職にあったサミュエル・ハンティントンとトマス・マッキーンの2人を継ぐ者と考えていた。先の2人も第二次大陸会議の前の議長達の後継者であった。アメリカ合衆国憲法で創設された大統領の座のような地位も執行的役割も無かった。また大統領の地位とは異なり、連合会議の議長は中心となって指導する存在でもなかった。連合規約のできる前の数年間、第二次大陸会議は1775年にジョージ・ワシントンを植民地の民兵を併せた軍隊の指揮官に任命していた。ワシントンは連合規約が有効となった後も最高司令官の地位にあり続け、独立戦争が終わるまで続いた。 しかし、ハンソンは議長職の任期1年間を全うした最初の者であり、初めて「議会における合衆国のプレジデント」という肩書きを使った。また、公式文書には初めて短縮された「合衆国のプレジデント」という肩書きを使った。 ハンソンはまた、アメリカ独立戦争でイギリスが降伏(正確には1781年10月17日のヨークタウンでの降伏直後であり、パリ条約の調印後ではない)した後で「議会における合衆国のプレジデント」に初めて選ばれた者でもある。このことは、ハンソンが政府の発行文書や儀式で初めてその肩書きを使ったことと併せて、ハンティントンやマッキーンの置かれた立場とは異なるとハンソンを見てきた者がいた主な理由の一つである可能性が強い(ハンティントンは連合規約が成立したときに既に大陸会議の議長職にあり、そのまま連合会議の議長となった。マッキーンは連合規約のもとで行われた新しい選挙法に従って議長に選ばれた者としては最初であるが、イギリス軍が降伏する前のことであった)。しかし、現在の正式な見解では、初代大統領はジョージ・ワシントンということで落ち着いたと言える。
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