調印後とは? わかりやすく解説

調印後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)

第二次世界大戦」の記事における「調印後」の解説

さらに翌9月3日に、連合国軍最高司令官総司令部は、アメリカの大統領ハリー・S・トルーマン布告を受け、「占領下においても日本主権認める」としたポツダム宣言反故にし、「行政・司法立法三権奪い軍政を敷く」という布告下し、さらに「公用語も英語にする」とした。 これに対して日本外相重光葵は、マッカーサー最高司令官に「占領軍による軍政日本主権認めたポツダム宣言逸脱する」、「ドイツ日本は違う。ドイツは(フレンスブルク政府のように)政府壊滅した日本には政府存在する」と猛烈に抗議し布告即時取り下げ強く要求したその結果連合国軍側即時重光抗議認めトルーマン布告即時取り下げ行い英米による占領政策日本政府通した間接統治となった連合国軍占領下の日本参照)。 また、当日には連合国軍最高司令官総司令部よりすべての航空機飛行禁止されたほか、漁船を含む船舶一切移動禁じられた。なお、マッカーサー最高司令官9月8日まで横浜ホテルニューグランド宿泊している。 連合国軍直ち日本軍および政府関係者40人の逮捕令状出し、のちに極東国際軍事裁判などで裁かれた。日本での戦犯逮捕指揮したエリオット・ソープCIC部長は、遡及法A級戦犯を裁くことに疑問感じマッカーサー最高司令官に「戦犯亡命させてはどうか」と提案したことがあったが、マッカーサー最高司令官は「そうするためには自分力不足だ、連合軍連中血に飢えている」と答えたという。さらに後年、「極東国際軍事裁判失敗であった」と悔やんでいる。最終的に逮捕したA級戦犯容疑者126となった一方中華民国イギリス領香港マレーシンガポールビルマインド、またはアメリカ領フィリピンオランダジャワフランス領インドシナオーストラリアなどにいた日本軍人、軍属それぞれの現地捕虜となり、その後現地B級ならびにC級戦犯として裁判掛けられる者が多かった。これらの軍人軍属対す連合国B級ならびにC級軍事裁判1946年まで行われその結果収容所入れられるか または現地死刑となった。 さらにソ連捕虜になった日本軍将兵は、まともな裁判もないままにシベリア抑留などで強制就労させられ5万5千人現地死亡したその後帰国してきた軍人も、共産党教育下で赤化されているだけでなく瀬島龍三中佐のようにソ連軍スパイスリーパー)として仕込まれている者も多かった民間人外交官軍属などは1945年8月より帰国開始する自国領土台湾朝鮮、またマレーインドシナタイなどからは比較順調に帰国したものの、中華民国満州国で内戦ソ連占領下にあるなど混乱多く中国残留孤児など戦後の混乱やむなく置いていかれる者も多かった

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調印後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 09:17 UTC 版)

第一次戦略兵器削減条約」の記事における「調印後」の解説

詳細は「リスボン議定書」を参照 ソ連の崩壊に伴い条約継承国アメリカロシア、ウクライナ、ベラルーシカザフスタンになった条約の批准は、ソ連崩壊により1994年まで遅延した旧ソ連核弾頭については、ベラルーシなどからロシア移送されロシア解体行った米露両国2001年12月弾頭数の削減終了したことを宣言している。 1994年12月発効したSTART I15年間有効であり、遅くとも失効する前年までに延長するかどうか会合を行うこととなっていた。2007年7月米露両国2009年以降核軍縮について交渉始めると発表した2009年12月グリニッジ標準時5日午前0時日本時間同日午前9時)、START I次の条約締結することなく失効した2010年4月新戦略兵器削減条約調印

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調印後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/06 23:03 UTC 版)

ヘルシンキ和平合意」の記事における「調印後」の解説

同年8月30日布告され大統領令により9月10日までにGAM関係者が1424人釈放された。同年9月15日EU主導によりノルウェースイスASEANブルネイマレーシアフィリピンシンガポールタイ参加の下アチェ監視団 (AMM) が設置された。GAM武装解除インドネシア政府統制にあった国軍警察アチェからの撤退同年12月21日完了したアチェ統治法和平合意定められ2006年3月31日より遅れたものの、2006年7月11日国会で採択された。和平合意から10年経過した2015年時点で、人権裁判所要求解決共同委員会真実和解委員会設置天然資源土地運用についてアチェ州権限に関する部分実施されていない

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