調印直後の反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 07:29 UTC 版)
ヒトラーは「偉大な二つの国が、荘厳な条約を締結した」としながらも、調印時に撮影された写真を見るとスターリンがどの構図でもタバコを持っていたため、「条約の調印は厳粛な儀式だ」として写真を修正して取り除かせた。またヒトラーはスターリン肖像写真を拡大させて耳を確認し、耳たぶが肉に食い込んでいないためユダヤ人ではないと判定している。ドイツ宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスは日記に『昨日、我が国はソビエトと不可侵条約を締結した。これでヨーロッパの力の均衡が揺らぐ。ロンドンやパリは耳を疑うに違いない。世界の反応を篤と見物しよう。』と記している。翌日、ヒトラーはイタリア王国のベニート・ムッソリーニ首相に手紙を出し、条約締結についてのドイツの意図を誤解しないように伝えた。ドイツの国民もおおむねこの提携を喜んで受け入れた。反共を通してきた古参ナチ党員達の間には複雑な感情が残ったものの、指導者原理に従ってこの決定を受け入れた。ローゼンベルクは、まるで「古くからの党の仲間のあいだにいる」かのよう、という調印の時のリッベントロップの感想を非難している。 またイデオロギー的に対立していたナチズムと共産主義の提携が、世界の共産主義者や社会民主主義者、そして反共主義者に与えた影響は大きかった。アメリカ共産党のアール・ブラウダーやフランス共産党などは、この提携が究極的な反ファシズムの戦いに乗り出したためであるというモスクワの公式見解を受け入れた。一方、かつて防共協定を結び、さらにドイツと同盟交渉中であった日本の政界が受けた衝撃は甚大であった。当時日本はソ連およびモンゴル人民共和国との国境紛争・ノモンハン事件(1939年5月11日 - 9月15日)の最中であった。8月25日に、平沼内閣は日独同盟の締結交渉中止を閣議決定した。8月28日には平沼騏一郎首相が「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」ために同盟交渉を打ち切ると声明し、責任をとって総辞職した。 ポーランドおよびイギリスとフランスは衝撃を受けたものの、ドイツに抵抗する姿勢を変えなかった。英仏は8月25日ポーランドと相互援助条約を結んだ。しかしドイツはこの条約によってポーランドを孤立化できると考え、同年9月1日、ポーランドに侵攻した。イギリスとフランスは相互援助条約に基づき、9月3日にドイツに対して宣戦布告し、第二次世界大戦が開始された。9月17日にはソ連が「ウクライナ系・ベラルーシ系市民の保護」を口実にポーランド東部国境から侵攻を開始した。独ソ両軍は衝突することもなく、秘密議定書の分割線に従って、その占領域を確定させた。9月28日には独ソ不可侵条約を前進させたドイツ・ソビエト境界友好条約が締結された。英仏はソ連に対しては宣戦布告を行わなかった。
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