ジュネーヴ協定調印後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 16:04 UTC 版)
「ホー・チ・ミン」の記事における「ジュネーヴ協定調印後」の解説
第一次インドシナ戦争中の1951年2月、第2回党大会において共産党組織が復興しベトナム労働党が結成された。ホーは労働党主席に就任し、党と国家の最高指導者としてベトナム民主共和国を統治した。ただし日常的な党務は第一書記のチュオン・チンに委ね、戦争終結後の1955年9月には首相職をファム・ヴァン・ドンに譲った。 チュオン・チンが急進的に行った土地改革が失敗して1956年に党第一書記を解任されると、ホーは第一書記を兼任したが、1957年にはレ・ズアンを第一書記代理として再び党務を委ねた。だが、ベトナムの統一方法をめぐって、ジュネーヴ協定の完全実施という平和的な方法をとろうとするホーと武力による統一をめざすズアンとが対立、ズアンが党指導部を掌握するとホーの影響力は外交面に限定されていった。ホーは国家主席兼党主席として国政の重要問題について最終的な決裁を下す立場にあったが、集団指導の原則に従って党政治局の決定を裁可するだけで、党内人事・国内問題などの決定にはほとんど関与せず、ズアン指導部の決定を容認していた。 国内の統治を党と政府に委ねたホーは、国家主席としてソ連や中華人民共和国などの友好国との交渉や、交戦国のフランスや、フランスを支援していたアメリカなどとの駆け引きといった外交問題を担当し、集会やラジオ演説で国民を励ます役割を果たすことに専念した。
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