ジュネーブ議定書とドイツ系オーストリア
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「アンシュルス」の記事における「ジュネーブ議定書とドイツ系オーストリア」の解説
1918年、第一次世界大戦に敗北してドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー二重帝国が崩壊した。民族自決による旧オーストリア帝国領内の諸民族の独立は、2つのドイツ人国家間の主導権争いと非ドイツ系民族の問題を解消させることとなり、再度「大ドイツ主義」によるドイツ統一の希望を抱かせることになった。特に工業生産力の高いチェコの独立はオーストリア共和国を経済的に脆弱にし、経済的な自立は極めて困難と考えられ、ドイツとの合併以外には生存方法はないと考えられるようになっていた。 1918年11月に成立したオーストリア第一共和国の臨時国民議会ドイツ系オーストリアはドイツ共和国の一構成部分であるという決議を全会一致で行い(この点に関してのみは右派も左派も一致した見解であった)、オーストリア社会民主党のカール・レンナー首相も講和の条件としてこの問題を取り上げた。また、1919年7月31日にヴァイマル共和政下のドイツで採択されたヴァイマル憲法にも、将来のオーストリアと併合をほのめかす条文があった。 ところがフランスやイタリアなどは、ドイツとオーストリアの合邦はドイツの強国化を招くとして反対した。一部には「民族自決は敗戦国にも当然の権利として許されるのではないか」とする意見もあったが、結局ドイツとオーストリアの合併は認められなかった。さらに1919年6月28日のヴェルサイユ条約80条、9月10日のサン=ジェルマン条約88条によって合邦の禁止は明文化された。 一方、連合国はオーストリアが独立を維持できるための措置も取り、1922年10月4日、国際連盟の斡旋でオーストリア首相イグナーツ・ザイペルと4ヶ国(イギリス・フランス・イタリア・チェコスロヴァキア)は、ジュネーヴ議定書を締結した。これによりオーストリアは6億5000万クローネ(3000万英ポンド)の国際借款を得た。しかし「(オーストリア政府は)独立を直接ないし間接的に危険にすると考えられるいかなる交渉も、いかなる経済的ないし金融的義務も持たない」という条件がつけられ、アンシュルスにつながる可能性のある経済的結合も禁止された。 国際条約では禁止されたものの実際の政策では独墺間で法律・税制・交通・通信などの共通化政策が進められ、両国においてアンシュルスを求める動きは残っていた。1925年に設立されたオーストリア=ドイツ民族同盟(独: Österreichisch-Deutsche Volksbund)やオーストリア=ドイツ活動共同体(独: Österreichisch-deutsche Arbeitsgemeinschaft)はその代表格であり、独墺両国にまたがるアンシュルス運動を行っていた。
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