ジュネーヴ協定からトンキン湾事件まで(1955~1965)
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「ベトナム民主共和国」の記事における「ジュネーヴ協定からトンキン湾事件まで(1955~1965)」の解説
ジュネーヴ会議の後、北ベトナムでは戦闘が停止され、ベトナム労働党と民主共和国政府は土地改革や集団農場化などの社会主義化を推進した。一方、南ベトナムでは、アメリカの支援を得たゴ・ディン・ジエムが旧来の指導者達を追放して1955年にベトナム共和国を樹立し、反共主義に基づく南ベトナムの警察国家化を推進した。ゴ・ディン・ジエム政権はジュネーヴ協定で定められた南北再統一のための選挙を拒否した上、反政府分子の弾圧や特定勢力(カトリック教徒等)の優遇等で失敗国家化が進み、社会不安を増大させていた。そのため、労働党は革命戦争再開の好機と判断し、1960年の第3回党大会で南ベトナムの解放と社会主義建設を謳い、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン、1960年成立)の闘争を指導し始めた(ベトナム戦争の始まり)。 1960年代に入りベトコンによるテロ、ゲリラ活動が南ベトナム各地で本格化すると、労働党はホーチミンルートを通じてベトコンへ物的・人的支援を活発化させた。ただし、1960年代前半の南ベトナムにおける闘争の主戦力は南ベトナムの活動家であり、ベトナム人民軍の派兵は限定的だった。これに対し、南ベトナムの現状を憂えたアメリカ政府は1961年に南ベトナム軍事援助司令部を設置し、軍事顧問団の増派と、ベトナム共和国軍への軍事物資支援の増強という形で軍事的介入を徐々に拡大した。南ベトナムにおける解放闘争の激化とあわせ、民主共和国はベトナム共和国軍のコマンド部隊による北ベトナム沿岸への襲撃を受けるようになった。そのような状況下の1964年、トンキン湾でベトナム人民海軍の魚雷艇がアメリカ海軍の駆逐艦を攻撃してしまう事件が発生した。事件は人民海軍の敵方識別誤認による偶発的なものであったが、アメリカ政府は事件発表時に事実を一部捏造して「共産主義の脅威」をあおり(トンキン湾事件)、翌1965年3月8日から米軍戦闘部隊の南ベトナム派遣を行なう口実としていった。
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