ジュネーヴ協定からトンキン湾事件までとは? わかりやすく解説

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ジュネーヴ協定からトンキン湾事件まで(1955~1965)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 05:55 UTC 版)

ベトナム民主共和国」の記事における「ジュネーヴ協定からトンキン湾事件まで(1955~1965)」の解説

ジュネーヴ会議の後、北ベトナムでは戦闘停止されベトナム労働党民主共和国政府土地改革集団農場化などの社会主義化推進した一方南ベトナムでは、アメリカ支援得たゴ・ディン・ジエム旧来の指導者達追放して1955年ベトナム共和国樹立し反共主義に基づく南ベトナム警察国家化推進したゴ・ディン・ジエム政権ジュネーヴ協定定められ南北再統一のための選挙拒否した上、反政府分子弾圧特定勢力カトリック教徒等)の優遇等で失敗国家化が進み社会不安増大させていた。そのため、労働党革命戦争再開好機判断し1960年第3回党大会南ベトナム解放社会主義建設謳い南ベトナム解放民族戦線ベトコン1960年成立)の闘争指導し始めたベトナム戦争始まり)。 1960年代入りベトコンによるテロゲリラ活動南ベトナム各地本格化すると、労働党ホーチミンルート通じてベトコン物的人的支援活発化させた。ただし、1960年代前半南ベトナムにおける闘争主戦力は南ベトナム活動家であり、ベトナム人民軍派兵限定的だった。これに対し南ベトナム現状憂えたアメリカ政府1961年南ベトナム軍事援助司令部設置し軍事顧問団増派と、ベトナム共和国軍への軍事物資支援の増強という形で軍事的介入徐々に拡大した南ベトナムにおける解放闘争激化とあわせ、民主共和国ベトナム共和国軍コマンド部隊による北ベトナム沿岸への襲撃を受けるようになったそのような状況下の1964年トンキン湾ベトナム人民海軍魚雷艇アメリカ海軍駆逐艦攻撃してしまう事件発生した事件人民海軍敵方識別誤認による偶発的なものであったが、アメリカ政府事件発表時に事実一部捏造して「共産主義脅威」をあおり(トンキン湾事件)、翌1965年3月8日から米軍戦闘部隊南ベトナム派遣行なう口実としていった

※この「ジュネーヴ協定からトンキン湾事件まで(1955~1965)」の解説は、「ベトナム民主共和国」の解説の一部です。
「ジュネーヴ協定からトンキン湾事件まで(1955~1965)」を含む「ベトナム民主共和国」の記事については、「ベトナム民主共和国」の概要を参照ください。

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