ジュネーヴ大使時代
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「バルザーン・イブラーヒーム・ハサン」の記事における「ジュネーヴ大使時代」の解説
1983年、バルザーンは国連ジュネーヴ本部駐在大使に任命される。事実上の左遷人事である。1987年9月18日、バルザーンはイラク海軍将校との間でトラブルを起こす。被害者である元イラク海軍少将のカイス・アブドゥル=ハーミド・アル=アンバーギー提督はAFP通信に対して自身の体験を語っている。 アンバーギーによれば、バグダードのカッラーダ地区に息子の誕生日ケーキを買いに車で出かけたところ、クラクションと共に後方から突進してくる車に遭遇した。アンバーギーは車を脇に寄せようとしたが、道が混んでいたため車を移動出来ないでいると、後方の車はアンバーギーの車を追い越すと数キロ先に停車した。車から降りてきたのはバルザーンで、ティクリート訛りのアラビア語でアンバーギーを罵り始めたため、自分がイラク軍将校であり、態度をわきまえる様にバルザーンに注意すると、バルザーンは「お前の父親と全てのイラク軍将校は地獄に落ちろ」と侮辱された。これにアンバーギーは怒り、バルザーンを殴打したため、逆上したバルザーンは機関銃でアンバーギーに発砲。アンバーギーは重傷を負い、二日間意識を失っていた。 一命は取り留めたものの、銃撃によって腸を損傷し、肩と膝に重傷を負ったため、歩行が不可能となった。アンバーギーはバルザーンを訴えようと大統領府と情報機関に申し出るが、逆に治安機関によって一晩拘留された。彼らはアンバーギーに訴えを取り下げるよう圧力を掛け、傷はイラン軍との戦闘で負傷したとするように求め、圧力に屈したアンバーギーはそれを受け入れた。以来、周囲には政権崩壊まで傷は戦闘によるものだと嘘を付き続けることを余儀なくされたという。 1994年、和解の意味も込めてサッダームはウダイをバルザーンの娘、サジャーと結婚させるが、ウダイがホテルで売春婦と暮らしだしたため、嫌気が指したサジャーは、義父のサッダームに離婚を申し出たが、サッダームはこれを拒んだ。仕方なくサジャーは、父がバグダードに帰国した際、この情況を打ち明け、バルザーンと共にスイスに渡った。 1998年、妻アフラム・ハイラッラーがジュネーヴでガンのため死去。サッダームの主治医で、バルザーンと親交のあったアラ・バシールによると夫婦仲は非常に良く、アフラム夫人も賢明な女性でサッダームの独裁政治には常に批判的であったという。そのためサッダームは自分の従姉妹に当たる彼女のことを非常に嫌っており、「あの黄色いヘビ」と罵っていた。サッダームは、アフラムがガンで死期が近づいてるのにも関わらず、バルザーンにアフラムを置いてイラクに帰任するよう再三命じたとされる。これ以降、この異父兄弟の関係は完全に断絶した。帰国後、バルザーンは大統領顧問という名目上のポストに任命される。バルザーンは故郷ティクリートに最愛の妻アフラムのために大霊廟を建築しようと計画していたが、政権崩壊により頓挫した。
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