ジュネーヴ学派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/23 22:43 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動ジュネーヴ学派(ジュネーヴがくは)は、フェルディナン・ド・ソシュールの影響を受けたジュネーヴ大学の言語学者の学派をいう。これとは別に文学評論家にもジュネーヴ学派というグループがある。
代表的な言語学者
- シャルル・バイイ (1865-1947)
- アルベール・セシュエ (1870-1946)
- セルゲイ・カルツェフスキー (1884-1955)
- アンリ・フレエ (1899-1980)
- ロベール・ゴデル (1902-1984)
- ルイス・ホルヘ・プリエト (1926-1996)
これにルドルフ・エングラー (1930-2003) を加えることもあるが、エングラーはジュネーヴ大学では活動していない[1]。
カルツェフスキーは後にプラハ大学に移り、プラハ学派にも属する。ソシュールの考えをプラハに伝える役割を果した。
活動
ジュネーヴ学派(École genevoise de linguistique)という名前は、1908年にバイイが使ったのがはじめであるという[1]。ソシュールの影響を受けたという以外、かならずしも主張が共通しているわけではない。
バイイとセシュエによりソシュールの『一般言語学講義』が1916年に出版された。またソシュールの論文集は1922年に出版された[2]。
バイイらによって1940年にジュネーヴ言語学会が創立され、その機関誌『カイエ・フェルディナン・ド・ソシュール』(Cahiers Ferdinand de Saussure)を1941年以来刊行した。ジュネーヴ言語学会は1956年に解散したが、フレエが中心になってその後も『カイエ』は刊行されつづけている。
ジュネーヴ学派の主要な言語学上の主張は、ゴデルの『A Geneva School Reader in Linguistics』にまとめられている[3]。
文学評論家
フランス語で「groupe de Genève」(ジュネーブ・スクール)という表現が、1950年代から1960年代にかけての文学評論家のグループにも示された。その中でとくに重要な人物としてベルギーの評論家であるジョルジュ・プーレ(Georges Poulet)やフランスの評論家Jean-Pierre Richard、そしてスイスの批評家マルセル・レイモンド、アルバート・ベギン、ジーン・ラセット、ジーン・スタロバンスキーらで、評論家のエミール・ステイガー、ガストン・バチェラード、J.ヒリスミラーなどもこのグループに関連人物として挙げられることもある。この「ジュネーブスクール」は、ロシア形式主義と現象学(エドマンドフッサールの作品など)から発展し、現象学の手法を利用して、著術者の意識といった深い構造まで、文学作品を分析しようとする一派である。
参考文献
- Robert Magliola. Phenomenology and Literature: An Introduction. Lafayette: Purdue University Press, 1977; 1978.
脚注
- ^ a b René Amacker (1995). “Geneva School, after Saussure”. In Koerner, E.F.K; Asher, R.E.. Concise History of the Language Sciences: From the Sumerians to the Cognitivists. Elsevier Science Limited. pp. 239-243. ISBN 0080425801
- ^ Recueil des publications scientifiques de Ferdinand de Saussure. Labrairie Payot. (1922)
- ^ Godel, Robert (1969). A Geneva School Reader in Linguistics. Indiana University Press
ジュネーヴ学派
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1918年に、ジャン・ピアジェ(1896年–1980年)が自身の初期の博物学者としての研鑽から転向してチューリヒで博士号取得後の研究として精神分析を始めた。1919年には彼はパリへ赴いてビネー・シモン研究室に勤めた。しかし、ビネーは1911年に死去し、シモンはルーアンに引っ越していた。そのためピアジェの指導はビネーの昔からのライヴァルでコレージュ・ド・フランスの教授だったピエール・ジャネが(間接的に)行うことになった。 パリでの仕事は比較的単純だった。: 博物学者として身に着けた統計学的手法を使って、軟体動物を研究し、シリル・バートの知能テストをフランスの児童に使えるように規格化すること。未だ直接の指導を受けていなかったが、彼はすぐにこの退屈な仕事の解決法を見出した: なぜ子供たちが失敗するのかを探求すること。精神分析的面接における初期の鍛錬に応用して、ピアジェは子どもたちに直接に干渉し始めた: 「何故そうしたのか?」(等々)。後に段階説として定式化する理論が最初に芽生えたのはこのころからであった。 1921年になると、ピアジェはジュネーヴに移ってジャン=ジャック・ルソー教育研究所とともにエドゥアール・クラパレードとともに研究を行った。 1936年には、ピアジェは初めての名誉博士号をハーヴァードから授与された。 1955年に、遺伝認識学国際センターが創立された: 理論家と科学者の学際的活動、ピアジェの理論に関係する議題の研究に捧げられた。 1969年、ピアジェは「科学に対する顕著な貢献」をアメリカ心理学会から賞された。
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