約定締結の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/04 18:36 UTC 版)
文久3年(1863年)、フランス軍人3名の殺害事件が発生する等、攘夷論が高まる中、幕府は横浜港の鎖港をするよう各国に打診したが、外国側はこれに応じなかった。そのため、横浜鎖港の交渉をするための遣仏使節が同年11月に結成された。外国奉行の池田筑後守長発を正使に、同じく外国奉行の河津伊豆守祐邦を副使とする34名の使節団が、同年12月29日に横浜から出港した。 使節は上海・スエズ・マルセイユ経由で1864年3月13日にパリに到着。ナポレオン3世政府の外務大臣ドルーアン・ド・リュイス (Édouard Drouyn de Lhuys) と横浜鎖港の交渉を開始した。しかし、フランス側は下関戦争の賠償請求・横浜などの3港の自由港化・新たな開港などを要求。鎖港の困難と開国の必要性を感じた池田達は、パリ約定を締結した。 遣仏使節は約定の調印後、予定していたイギリス訪問を中止し、元治元年(1864年)7月に横浜に帰港。その後、7月22日に池田達は対外和親の政策を幕府に建議した。しかし、幕閣は使節一行が横浜鎖港の使命を果たせなかったことに怒り、池田長発を半知召上げ・蟄居とし、副使の河津も免職・蟄居を命ぜられた。
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