マーチ(レイトンハウス)時代
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「エイドリアン・ニューウェイ」の記事における「マーチ(レイトンハウス)時代」の解説
1988年、ニューウェイのF1処女作となる881は優れた空力デザインにより高いコーナリング性能を発揮。自然給気エンジン搭載車ながらターボエンジンに負けない速さをみせ、ポルトガルGPではイヴァン・カペリがアイルトン・セナを抜いて2位表彰台を獲得。日本GPではカペリがマクラーレンのアラン・プロストを抜き、一時トップを走った。ニューウェイはベネトンのロリー・バーンとともに「空力派のデザイナー」として注目の存在となる。 1989年、マーチがレイトンハウスに改名すると、ニューウェイはテクニカルディレクターに昇進した。ジャパンマネーの資金をバックに完成した自社風洞でより先鋭的な空力デザインを研究したが、CG891は車体の姿勢変化によってダウンフォース量が急激に変化するという扱いにくいマシンになってしまった。 1990年はCART時代の知り合いであるイルモアにレイトンハウスが資金提供し、翌年に向けてF1用エンジンを開発するという話がまとまる。しかし、チームの成績は低迷し続け、成績不振の責任を取らされフランスGP直前にニューウェイは解雇された。皮肉にも、ニューウェイ離脱直後のフランスGPでカペリが殊勲の2位を獲得した。
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マーチ時代
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欧州F2選手権等で活躍後、1971年9月にマックス・モズレーが代表をしていたマーチからF1にデビュー。このデビューでは父親による各所への圧力でチームへの持参金が足りず、金策の為に自らの交渉術の結果銀行からの融資を受けられることになったが、担保は自らの生命保険であった。ラウダは、参戦前に自分のレース計画や将来の展望について記者会見を行う、新しいタイプのドライバーだった。チームメイトのロニー・ピーターソンとは友人であったが、マーチは資金不足でありピーターソンの1台に注力する状況が続いた。ラウダはピーターソンと遜色のない速さもみせたが、1972年末にマーチとの契約終了となった。
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マーチ(レイトンハウス)時代
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「マウリシオ・グージェルミン」の記事における「マーチ(レイトンハウス)時代」の解説
1988年 1988年シーズンの開幕戦ブラジルGPにて、イワン・カペリのチームメイトとしてマーチからF1デビューを果たした。この年のマーチは、ノンターボながら度々光る走りを見せ、ベネトンと共にNA勢の中心チームだった。 当初こそマシンの信頼性に苦しめられ、開幕から6戦のうち5戦でマシントラブルによるリタイアを喫したが、それ以降はシーズン終了までの10戦のうち7戦で完走を果たした。スピンないしクラッシュでリタイアしたのは第11戦ベルギーGPと第16戦オーストラリアGPの2度だけであり、後者は中嶋悟に追突されたアクシデントだった。 また、特にシーズン後半は予選・決勝を通じてしばしば上位を走行し、第8戦イギリスGPで4位、第10戦ハンガリーGPで5位に入賞。計5ポイントを稼ぎ、ランキングで13位となった。また第13戦ポルトガルGPでは、予選で自身ベストとなる5番手グリッドを獲得している。 1989年 1989年は、地元の開幕戦ブラジルGPにて予選12位から追い上げ、3位表彰台を獲得。第7戦フランスGPでは、スタート直後に大クラッシュに巻き込まれ横転するが、再スタートとなったレースでは快走を見せ、F1で自身唯一のファステストラップを記録(ただし、規定周回不足により完走扱いにはならなかった)。 しかし空力に対し過敏であり、信頼性も低いマシンに悩まされ、結局入賞はブラジルGPのみに終わっている(4ポイントでランキング16位)。また、9度のリタイアと1度の予選落ちを喫した。 1990年 1990年、マーチのメインスポンサーであったレイトンハウスが前年にチームを買収したことで、この年よりコンストラクター名がレイトンハウスとなる。この年のマシン「CG901」は前年以上に神経質であり、特にバンピーな路面に弱かった。第2戦ブラジルGP・第6戦メキシコGPでは、カペリと揃っての予選落ちを喫したが、どちらもシリーズ有数の路面の荒れたサーキットであった。 メキシコGP直後の第7戦フランスGPでは、チームが改良型のマシン「CG901B」を用意。スムーズな路面のポール・リカールでの開催であったことや、タイヤ無交換作戦がはまったこともあり、一時カペリに次ぐ2位を走行。フェラーリのアラン・プロスト、マクラーレンのゲルハルト・ベルガーらの追撃をしのいだ。最終的には、元々信頼性に難があったジャッドエンジンが限界に達し、プロストに抜かれたところでブローしリタイアとなったが、久々の表舞台への登場となった。その後、第11戦ベルギーGPで6位に入賞している。 1991年 1991年もレイトンハウスから参戦。第2戦ブラジルGPでは、地元で予選8位につけ期待を集めたが、決勝直前のウォームアップで車内の消火器が噴射し、足に火傷を負い、最終的には痛みに耐え切れず序盤で棄権した。他にも時折7〜9位といった上位グリッドに付け、決勝でも7位3回・8位1回を記録したが、結局ノーポイントに終わった。 基本的な戦闘力は前年以上に低下しており、カペリ共々リタイアを連発するシーズンとなった。また同チームの経営母体の企業のオーナーの赤城明が、富士銀行の不正融資事件に関係し逮捕され、急速に資金難になったことから、1991年シーズンを持って同チームから離れることとなった。
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