表舞台への登場
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1978年1月に克也と本妻の離婚が成立すると、同年4月19日に克也と再婚。ダンとケニーの二人も沙知代と共に克也の籍に入り、野村姓を名乗る。克也は1980年に現役を引退すると、野球評論家として解説業の傍ら主に野球に関する著作を次々と発表した。沙知代もまた文筆活動に興味を持ち、1985年に潮出版社が主催した第4回潮賞のノンフィクション部門に「きのう雨降り 今日は曇り あした晴れるか」と題した作品で応募して特別賞を受賞した。 受賞者が発表された『潮』1985年8月号にはノンフィクション部門の選考委員3人(本田靖春、筑紫哲也、柳田邦男)による鼎談形式の選評が掲載され、その中で本田靖春は、沙知代の作品を「私はプロ野球にはあまり関心のない人間の一人なんですが、その私にして野村克也という人柄とか、人となりを、非常に身近なところから再確認できたんじゃないかと、そういう感じがします。話題性も十分だし、これまた活字になるべき価値を持った作品だと思いますね」と講評し、沙知代の南海追放に関する主張は「あくどいジャーナリズムに対する反論」であるとして、沙知代を「この人はまちがいなく教養人だと思う」と評した。 この時、受賞者の紹介欄に、沙知代の経歴は「D&K社社長、コロンビア大学精神心理学部卒、昭和47年野村克也氏と結婚」と記載された。また、この作品は同年に潮出版社から単行本化されたが、単行本の奥付にも「昭和7年東京生まれ、コロンビア大学精神心理学部卒業、昭和47年野村克也氏と結婚、株式会社D&K社長」という経歴が記載された。 克也は1990年からヤクルト本社社長の桑原潤に乞われてヤクルトスワローズの監督に就任した。この時、南海時代から克也と師弟関係にあり、解任時にも克也と行動を共にした高畠康真が打撃コーチとして入閣したが、高畠は克也の不興を買い一年限りで退団に追い込まれた。高畠自身は退団の経緯については多くを語らなかったが、ごく親しい友人には「かつての野村さんはそんな人じゃなかった。相変わらず、夫人の介入もありましたし」と、沙知代の介在を示唆する話をしていたという。また、古田敦也について「(夫が)ヤクルトの監督を辞める時、古田くんは『お世話になりました』の一言だけ。(略)古田くんを夫は愛弟子のように育てていましたが、息子(カツノリ)は育てられないのかと非常に不満でした。やっぱり古田くんは殺してやりたい」と発言したり、1998年1月にはハワイで、石井一久と交際していると報道されていたタレントの神田うのを殴打する騒動を起こすなど、二軍監督の八重樫幸雄は一軍ヘッドコーチの松井優典から「カツノリを早く一軍に上げろ」って、しつこく言われたことがあったんだよね。いや、たぶんサッチーだと思うよ。松井さんと沙知代さんは、距離が近かったから。サッチーはとにかくカツノリをかわいがっていたからね。」と回顧している。克也のヤクルト監督時代も沙知代の行状は改まらなかった。
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