打撃コーチとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 00:52 UTC 版)
「チャーリー・ラウ」の記事における「打撃コーチとして」の解説
引退後ラウは1968年にアトランタ傘下のダブルAシュリーブポート・ブレーブスで監督を1年間務めた。この時の教え子には1970年代後半から90年代にかけてボストン・レッドソックスやシカゴ・ホワイトソックスなどで打撃コーチを務めたウォルト・リニアックがいる。リニアックはラウの打撃理論(詳細は後述)を忠実に守り指導した。リニアックが指導したラウの打撃理論の信奉者にはカール・ヤストレムスキーやウェイド・ボッグス、フランク・トーマスなどがいる。 詳細は「ウォルト・リニアック」を参照 翌1969年からはオリオールズでブルペンコーチを務めた。1970年にはオークランド・アスレチックスの打撃コーチを務めた。 その後、1971年から1978年までロイヤルズのバッティングコーチを務めた。ここで打撃コーチとしての能力が認められ、1975年シーズンの初めに監督のジャック・マキーオンがロイヤルズから解雇された後も一時的にカンザスのマイナーリーグの打撃コーチを務めた ほどだった。 カンザス時代には、中距離砲タイプのハル・マクレーやエイモス・オーティス、俊足巧打の1番打者タイプのウィリー・ウィルソンに加え、首位打者を3度獲得し、3000本安打達成者となる好打者ジョージ・ブレットなど70年代から80年代のロイヤルズ黄金期を支える打者を育成した。更に20代後半から成績が下降していたやはり中距離砲タイプのクッキー・ロハス を移籍翌年の32歳から4年連続でオールスターゲームに選出されるまでに復活させたことでも知られている。 ヤンキースの打撃コーチ時代の1980年には"The Art of Hitting .300"という打撃指南の著作を上梓している。表紙は自身が在籍するヤンキースの選手ではなく、上梓した時点で既にラウが育てた中で最も成功した選手といえるジョージ・ブレットを起用している。 1982年にシカゴホワイトソックスの打撃コーチに就任した。就任当時は落ち目だったベテランのパワーヒッターグレッグ・ルジンスキーやカールトン・フィスクに加え、中距離砲タイプのスティーブ・ケンプをそれぞれ復活に導き、中距離砲タイプのハロルド・ベインズやパワーヒッターのロン・キトルなどを育成している。 この様に多くの異なるタイプの打者を育成するだけでなく、それまでのスタイルを変えることなく復活に導く手腕を持っていた。 その一方で育成や復活に携わった多くの選手は四球が極端なまでに少なかった。しかし、これは2000年代中盤以降に四球の評価が高まり価値観が変化したことによって登場した評価であるという見方が自然だといえる。
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