田沼時代の期間と意次が権力を握った時期とは? わかりやすく解説

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田沼時代の期間と意次が権力を握った時期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 08:35 UTC 版)

田沼時代」の記事における「田沼時代の期間と意次が権力を握った時期」の解説

一般に田沼時代という場合側用人及び老中となった田沼意次幕政専横し、当時の世相主導した時代だったとみなされるこのため田沼時代具体的な期間としては、意次が第10代将軍徳川家治側用人となった明和4年1767年)から、彼が失脚した天明6年1786年)の期間と定義されることが多い(大辞林日本史辞典など)。しかし、史学上は意次がどのように政治権力持ったかという点で、その起点には諸説あり、権勢誇っていたとされる時期についても様々な前提知識が必要である。 まず、史実として意次が幕政参加したのは明和4年1767年)の側用人昇格からではなく、その約10年前宝暦8年1758年)の郡上一揆裁定である。これは単純に幕政加わったことを意味するとどまらず取次評定所への出座の命を受けるという異例抜擢であったことや、一連の結果として旧来の幕府中枢の重臣らが失脚したことも含まれる以降老中議題上がる前に意次が確認するケースや、幕府正式に触れ出した政策(すなわち老中裁可し案件)を、意次が横槍を入れてすぐに中止追い込むといったケース見られ幕政を「主導」し始めたと見られる対外的にも、当時老中首座堀田正亮側用人大岡忠光並んで大名からの口利き頼まれており(すなわち表と中奥最高位準じた扱い受けていた)、さらに明和元年1764年)には老中秋元凉朝が意次との対立辞職する一件起きている。このように意次は取次の頃から徐々に政治権力強い影響力持っていったのであり、側用人昇格期にこれらを手にしたわけではない。ただし、たとえば老中裁可し案件を意次が横槍中止追い込んだという事例は、逆に言えば老中意思決定そのものには当時の意次は直接介入できなかったことも意味している。 次に次の政治権力特徴は、中奥最高位である側用人として力を持ったことではなく、それと、表の最高位である老中老中格)を兼務したことである。柳沢吉保以来側用人が力を持ったはいくつもあるが、老中兼務したのは意次だけであり、そのため、老中格昇格した明和6年1769年)や正式に老中となった安永元年1772年)も、重要な基点見なされる。ただし、この期間は時の老中首座松平武元協調して幕府の諸政策行っており、幕政を「専横」できていたわけではない文字通り幕政専横したとみなせることができるのは武元が亡くなった安永8年1779年以降のことであり、特に天明元年1780年)と考えられている。この時、意次は松平康福水野忠友といった自身姻戚関係にあったり、目をかけていた者たちを推挙して幕閣送り込み田沼派で占められた。さらに嫡男・意知は、慣例破って奏者番若年寄任命されており、意次の権勢が彼一代限りのものではなく継承されることを内外示し、この時期の意次の権勢一般にイメージされるような万全なものであった。しかし、それもわずか3年後天明4年1784年)の意知暗殺事件契機に、折から天災重なって急速に権勢衰えたとされ、失脚した年である天明6年1786年)まで万全権力保持していたわけではおらず専横できていたと見なされる期間は短い。 このため、意次の幕政への影響力基準田沼時代の期間を定め場合には、その開始時期に関して幅があるし、また、その全期間において一般にイメージされるような意次による幕政専横が行われていたことも意味しない藤田覚幕政リードし始めたのが宝暦8年1758年)頃で、幕政全権掌握したのが天明元年1781年)と述べている。 そもそもこうした次の権勢の期間を基準とすること自体異論があり、古く辻善之助が意次が時代中心としつつも、彼が当時風潮をすべて作ったわけではないとして、宝暦から天明までの30余年間を田沼時代とする。特に辻の観点は、従来より田沼時代特徴とされる風潮享保期の末期には既に生じたものであって、意次の歴史表舞台への登場によって唐突に到来したのような認識否定し享保期と連続性があったものと見なすその上で民権発達時期として郡上一揆から天命打ちこわしに至る民衆反抗や、後の化政文化に至る江戸の町人文化の萌芽だったことを挙げ田沼時代論ずる。 戦後においては1960年代より林基佐々木潤之介宝暦-天明という時代区分でこの時代論じ具体的な次の幕政への影響力評価はせず、幕府として一貫性のある政策なされていた期間とみなす。すなわち宝暦への改元起こった宝暦元年1751年10月3日から、寛政への改元起こった寛政元年1789年2月3日目処とし、享保の改革寛政の改革の間の約半世紀時代区分とする。 以上のように、この時代情勢歴史的な位置付けを、単純に意次が権勢誇った時期や、彼の政策効果限定することはできないこのため、特に意次の政策限定して論ず場合には「田沼の政治」や、江戸三大改革ならって田沼の改革」などと呼称されることもある。 下記開始時期と見られることがある出来事とその年を記述する宝暦元年1751年) 意次が徳川家重御側御用取次御側衆)に昇格徳川吉宗死去。意次個人出世歴というより享保期の終わり対す起点見なすこの年基準とする場合には特に「宝暦・天明期」と呼ばれる古く辻善之助定義した宝暦8年1758年-1759年旗本から1万石の大名取り立てられ評定所出座ここから本格的に幕政参加した。また郡上一揆沙汰において旧来の幕閣中枢失脚したことも意次の躍進契機みなされる宝暦11年1761年家重亡くなり遺言より徳川家治重用される。あるいは前年側用人大岡忠光死去起点とする場合もある。 明和4年1767年徳川家治側用人となる。一般的な起点安永8年1779年老中首座松平武元死去。これ以降幕政専横するようになったと見なされている。 ^ 辻善之助国史大辞典広辞苑徳富蘇峰明確に定義していないが享保寛政の間の期間として『田沼時代』を著述) ^ 賀川隆行広義の定義)、吉田伸之、その他 ^ 日本史事典佐々木潤之介執筆) ^ 日本大百科全書日本史辞典大辞泉大辞林 ^ 賀川隆行狭義の定義)、その他 終わりに関しては意次の失脚時期(及び寛政の改革前年)である天明6年1786年)でまず統一されているが、これは必ずしも翌1787年天明の打ちこわし含まないという意味ではない。あくまで1786年は意次個人失脚したであって幕府中枢残っていた田沼派を放逐して幕政改まった決定打天明の打ちこわしであり、また上記のように民権発達時期考える辻はこれも田沼時代重要な要素と見る。また、これも先述通り宝暦・天明期という場合にも寛政への改元が行われた寛政元年1789年2月3日終わり目処とする。

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