田沼時代の期間と意次が権力を握った時期
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「田沼時代」の記事における「田沼時代の期間と意次が権力を握った時期」の解説
一般に田沼時代という場合、側用人及び老中となった田沼意次が幕政を専横し、当時の世相を主導した時代だったとみなされる。このため、田沼時代の具体的な期間としては、意次が第10代将軍徳川家治の側用人となった明和4年(1767年)から、彼が失脚した天明6年(1786年)の期間と定義されることが多い(大辞林や日本史広辞典など)。しかし、史学上は意次がどのように政治権力を持ったかという点で、その起点には諸説あり、権勢を誇っていたとされる時期についても様々な前提知識が必要である。 まず、史実として意次が幕政に参加したのは明和4年(1767年)の側用人昇格からではなく、その約10年前の宝暦8年(1758年)の郡上一揆の裁定である。これは単純に幕政に加わったことを意味するにとどまらず、取次が評定所への出座の命を受けるという異例の抜擢であったことや、一連の結果として旧来の幕府中枢の重臣らが失脚したことも含まれる。以降、老中へ議題が上がる前に意次が確認するケースや、幕府が正式に触れを出した政策(すなわち老中が裁可した案件)を、意次が横槍を入れてすぐに中止に追い込むといったケースも見られ、幕政を「主導」し始めたと見られる。対外的にも、当時の老中首座・堀田正亮や側用人・大岡忠光と並んで大名からの口利きを頼まれており(すなわち表と中奥の最高位に準じた扱いを受けていた)、さらに明和元年(1764年)には老中秋元凉朝が意次との対立で辞職する一件が起きている。このように意次は取次の頃から徐々に政治権力や強い影響力を持っていったのであり、側用人昇格を期にこれらを手にしたわけではない。ただし、たとえば老中が裁可した案件を意次が横槍で中止に追い込んだという事例は、逆に言えば老中の意思決定そのものには当時の意次は直接介入できなかったことも意味している。 次に意次の政治権力の特徴は、中奥の最高位である側用人として力を持ったことではなく、それと、表の最高位である老中(老中格)を兼務したことである。柳沢吉保以来、側用人が力を持った例はいくつもあるが、老中を兼務したのは意次だけであり、そのため、老中格に昇格した明和6年(1769年)や正式に老中となった安永元年(1772年)も、重要な基点と見なされる。ただし、この期間は時の老中首座・松平武元と協調して幕府の諸政策を行っており、幕政を「専横」できていたわけではない。文字通り幕政を専横したとみなせることができるのは武元が亡くなった安永8年(1779年)以降のことであり、特に天明元年(1780年)と考えられている。この時、意次は松平康福や水野忠友といった自身と姻戚関係にあったり、目をかけていた者たちを推挙して幕閣に送り込み、田沼派で占められた。さらに嫡男・意知は、慣例を破って奏者番や若年寄に任命されており、意次の権勢が彼一代限りのものではなく継承されることを内外に示し、この時期の意次の権勢は一般にイメージされるような万全なものであった。しかし、それもわずか3年後の天明4年(1784年)の意知暗殺事件を契機に、折からの天災も重なって急速に権勢は衰えたとされ、失脚した年である天明6年(1786年)まで万全の権力を保持していたわけではおらず、専横できていたと見なされる期間は短い。 このため、意次の幕政への影響力を基準に田沼時代の期間を定める場合には、その開始時期に関して幅があるし、また、その全期間において一般にイメージされるような意次による幕政の専横が行われていたことも意味しない。藤田覚は幕政をリードし始めたのが宝暦8年(1758年)頃で、幕政の全権を掌握したのが天明元年(1781年)と述べている。 そもそもこうした意次の権勢の期間を基準とすること自体に異論があり、古くは辻善之助が意次が時代の中心としつつも、彼が当時の風潮をすべて作ったわけではないとして、宝暦から天明までの30余年間を田沼時代とする。特に辻の観点は、従来より田沼時代の特徴とされる風潮は享保期の末期には既に生じたものであって、意次の歴史の表舞台への登場によって唐突に到来したかのような認識を否定し、享保期と連続性があったものと見なす。その上で、民権発達の時期として郡上一揆から天命の打ちこわしに至る民衆の反抗や、後の化政文化に至る江戸の町人文化の萌芽だったことを挙げ、田沼時代を論ずる。 戦後においては1960年代より林基や佐々木潤之介が宝暦-天明という時代区分でこの時代を論じ、具体的な意次の幕政への影響力は評価はせず、幕府として一貫性のある政策がなされていた期間とみなす。すなわち宝暦への改元が起こった宝暦元年(1751年)10月3日から、寛政への改元が起こった寛政元年(1789年)2月3日を目処とし、享保の改革と寛政の改革の間の約半世紀の時代区分とする。 以上のように、この時代の情勢や歴史的な位置付けを、単純に意次が権勢を誇った時期や、彼の政策と効果に限定することはできない。このため、特に意次の政策に限定して論ずる場合には「田沼の政治」や、江戸の三大改革にならって「田沼の改革」などと呼称されることもある。 下記、開始時期と見られることがある出来事とその年を記述する。 宝暦元年(1751年) 意次が徳川家重の御側御用取次(御側衆)に昇格。徳川吉宗死去。意次個人の出世歴というより享保期の終わりに対する起点と見なす。この年を基準とする場合には特に「宝暦・天明期」と呼ばれる。古くは辻善之助が定義した。 宝暦8年(1758年-1759年) 旗本から1万石の大名に取り立てられ、評定所に出座。ここから本格的に幕政に参加した。また郡上一揆の沙汰において旧来の幕閣中枢が失脚したことも意次の躍進の契機とみなされる。 宝暦11年(1761年) 家重が亡くなり、遺言より徳川家治に重用される。あるいは前年の側用人・大岡忠光の死去を起点とする場合もある。 明和4年(1767年) 徳川家治の側用人となる。一般的な起点。 安永8年(1779年) 老中首座・松平武元の死去。これ以降、幕政を専横するようになったと見なされている。 ^ 辻善之助。国史大辞典、広辞苑、徳富蘇峰(明確には定義していないが享保と寛政の間の期間として『田沼時代』を著述) ^ 賀川隆行(広義の定義)、吉田伸之、その他 ^ 日本史大事典(佐々木潤之介執筆) ^ 日本大百科全書、日本史広辞典、大辞泉、大辞林 ^ 賀川隆行(狭義の定義)、その他 終わりに関しては意次の失脚時期(及び寛政の改革の前年)である天明6年(1786年)でまず統一されているが、これは必ずしも翌1787年の天明の打ちこわしを含まないという意味ではない。あくまで1786年は意次個人が失脚した年であって、幕府中枢に残っていた田沼派を放逐して幕政が改まった決定打は天明の打ちこわしであり、また上記のように民権発達の時期と考える辻はこれも田沼時代の重要な要素と見る。また、これも先述の通り宝暦・天明期という場合にも寛政への改元が行われた寛政元年(1789年)2月3日を終わりの目処とする。
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