田沼時代の財政
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田沼意次の財政政策は世間の通説では積極財政だと言われている。だが藤田覚などの歴史学者の中には田沼意次の政策を緊縮財政であったと主張している。天明7年老中となった松平定信に提出された植崎九八郎上書の中には、田沼意次の政治をこう批判している “諸役人は、幕府の支出を一銭でも減らすことを第一の勤めとしてお互いに競い合い、幕府の利益だととなえて、重い租税を取り立てることを将軍への奉公と考え、おのおのの 持ち場で、一方で費用を切りつめて支出を減らし、他方で租税の取り立てを厳しくし、その手柄により転任し出世していった。” 諸経費削減 田沼は吉宗時代に倣った経費削減を行った。大奥の縮小、将軍の私生活を賄う御納戸金の額を1750年には2万4600両だったものから1771年に1万5000両に削減した。1746年に幕府諸役所経費の二年間節減を命じ、1755年に役所別定額予算制度を採用、1764年には、役所で使う筆墨、燈油などの現物支給を停止し、役所経費での購入に変更するなど、経費削減に取り組んだ。 御手伝普請 さらに、1757年、田沼は吉宗時代に停止されていた国役普請を再開した。幕府普請よりも国役普請の方が私領での公儀普請時の領主負担分の立替金をきちんと徴収すれば幕府負担は工事費の10分の1の負担で済んだからである。国持ち大名や20万石以上の大名にも御手伝普請を行わせることで、幕府の負担の軽減を図った。命じられた大名達は財政難の中で、自分の領国統治には無関係で年貢増加にもつながらない手伝い普請を行うことで、多くの借金を背負うこととなった。命じられた藩の中には藩政改革中の藩などもいたが、かまわず命じられ回復した藩財政はふたたび借金の中に沈んだ。特に、仙台藩は、1767年に利根川筋の御手伝普請を命じられたが、これによって22万両もの巨額の借金を抱えることとなり、今まで以上に藩の利益を追求することを余儀なくされたことで天明の大飢饉の被害を広げたのではないかと言われている。 拝借金の停止 明和八年(1771)拝借金を制限した。拝借金とは、凶作や自然災害などによって経済的苦境におちいった大名・旗本を救済するため、無利子、年賦返済で融資するという制度だった。これは幕府が大名や旗本たち武士身分の者達を保護する「公儀」であることを、金融面で示す制度であり、将軍・幕府への求心力を維持するための制度であったが財政難を理由にこれを制限した。さらに明三年(1783)にはとうとう拝借金を全面停止するに至った。 倹約令の発布 宝暦元年(1751年)から十一年(1761年)の毎年は米は赤字のときもあったが金は黒字続きだったのが、宝暦十二年から次の明和では米・金ともに赤字が続いた。明和元年(1764)に米五万石、金五万両の赤字になり、以降明和六年まで金方の収支は毎年赤字、米も四年以外は毎年赤字になっていた。このように明和期以降幕府財政は赤字基調になっていた。そのため、明和八年(1771)に五年間の倹約令を発布した。明和の倹約政策をやめるとまた黒字は減っていき、天明の大飢饉による大赤字が起きた。それに対応するために天明三年(1783)に七年間の倹約令を発布し、更に厳しい倹約政策を実施した。また天明3年には大飢饉の最中、諸役人へ年貢量は維持、冥加・運上は増額。堤防や道路、橋の工事費は減額すると命じている。 御用金令 大坂西町奉行の佐野政親を担当とし、天明3年、大名への融資の財源として、大坂の豪商に対し14万5千両もの『御用金令』を命じた。この金は実際に幕府の金蔵に収めるわけではなく、商人たちの手元に留めておき、大名から融資の申し込みがあれば大坂町奉行所が返済保証をつけ貸し付けるというものだった。年利8%であり、そのうち幕府は2.5%、商人は5.5%の利益を得るというものだった。だが大名からの返済が滞っていることから商人たちは貸し渋ったため、天明五年に改めて大名側からの年貢を担保として設定し同様の仕組みで利息7%うち1%を上納する御用金令が出される。当時、天明の大飢饉により大名の資金繰り問題がより深刻化しており、そこから大名の救済、幕府財政支出の削減、新財源創出という三つが達成できる施策であったが、結局商人たちの融資そのものに対する強制力が無かったため、またまた貸し渋りが起こり、実効性がないまま天明六年(1786)に中止となった。 貸金会所 御用金令の失敗を受けて、天明六年(1786)、新たに構想されたのが貸金会所の設立である。これはある種の「政府系銀行」「国債」ともいえる先進的な試みであった。天明の大飢饉により資金繰りに困窮している諸大名への融資を行うため、諸国の寺社・山伏は、その規模などに応じて最高15両を、全国の百姓は持ち高100石につき銀25匁を、諸国の町人は、所持する家屋敷の間口の広さ 1間につき銀3匁を、この年から5年間毎年幕府に対して支払うように命令した。貸金会所を通じて年利7%で大名に貸し出され、五年後以降7%の貸付利息から事務手数料を引いた利息をつけて出資者に返済されるという仕組みである。ほぼ全国民に対する強制的な徴収である一方で五年後に利息がついて返ってくる仕組みであり、現代にも通ずる先進的な試みではあったが、負担を求められる側にとっては、たださらなる負担を強いられるだけにしか見えず、しかも天明の大飢饉の真っただ中での「増税」案ということもあって反発が大きかった。また借り手である大名の方も、確かに市中金利よりも低金利で借りられるメリットはあるが、原資は領民でもある百姓・町人から取り立てた金であり、幕府の「貸金会所」を通じて借りるということは藩の内情を幕府に知られてしまうことになる。この点で大名たちからも反発が大きく、結局発令の2ヵ月後には早くも関東の大水害などを理由に御用金令は撤回された。 広く薄い課税 上に書かれた通り、株仲間の推奨や、長崎会所の立て直し、貨幣発行益などを行った。 田沼意次の増税は広く浅くであった。株仲間からの冥加金としては、京飛脚仲間は初年度30両、以降は10両、江戸三度飛脚屋仲間は初年度銀17枚、以降銀5枚などと規模の大きな株仲間としては冥加金の額が少なく財政収入の増加という点でどれほどの効果があったのか、疑問を差し込む余地もあったが、広く浅く課税をして少しでも財政収入を増加させようという意図が見受けられる。農村へも安永元年(1772年)幕府は、農村に対しても、酒造、醤油・酢醸造、絞油、水車稼ぎ、薪といった項目名を具体的に挙げ、更にそれ以外の品目でも、僅かでも稼ぎがあるなら冥加金を上納させろと諸役人に命じている。
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