田沼時代の財政とは? わかりやすく解説

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田沼時代の財政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 14:53 UTC 版)

田沼意次」の記事における「田沼時代の財政」の解説

田沼意次財政政策世間通説では積極財政と言われている。だが藤田覚などの歴史学者中には田沼意次政策緊縮財政であった主張している。天明7年老中となった松平定信提出された植崎九八郎上書中には田沼意次政治をこう批判している “諸役人は、幕府支出一銭でも減らすことを第一勤めとしてお互いに競い合い幕府利益だととなえて、重い租税取り立てることを将軍への奉公考え、おのおのの 持ち場で、一方で費用を切りつめて支出減らし他方租税取り立て厳しくし、その手柄により転任し出世していった。” 諸経費削減 田沼吉宗時代倣った経費削減行った大奥縮小将軍私生活賄う御納戸金の額を1750年には2万4600両だったものから1771年1万5000両に削減した1746年幕府諸役経費の二年間節減命じ1755年役所定額予算制度採用1764年には、役所で使う筆墨燈油などの現物支給停止し役所経費での購入変更するなど、経費削減取り組んだ御手伝普請 さらに、1757年田沼吉宗時代停止されていた国役普請再開した幕府普請よりも国役普請の方が私領での公儀普請時の領主負担分の立替金をきちんと徴収すれば幕府負担工事費10分の1負担済んだからである。国持ち大名20万石上の大名にも御手伝普請行わせることで、幕府負担軽減図った命じられ大名達は財政難の中で、自分領国統治には無関係年貢増加にもつながらない手伝い普請を行うことで、多く借金背負うこととなった命じられた藩の中には藩政改革中の藩などもいたが、かまわず命じられ回復した財政はふたたび借金中に沈んだ。特に、仙台藩は、1767年利根川筋の御手伝普請命じられたが、これによって22万両もの巨額借金抱えることとなり、今まで以上に藩の利益追求することを余儀なくされたことで天明の大飢饉被害広げたではないかと言われている。 拝借金停止 明和八年1771拝借金制限した拝借金とは、凶作自然災害などによって経済的苦境おちいった大名・旗本救済するため、無利子年賦返済融資するという制度だった。これは幕府大名旗本たち武士身分の者達を保護する公儀」であることを、金融面で示す制度であり、将軍幕府への求心力維持するための制度であった財政難理由にこれを制限した。さらに明三年(1783)にはとうとう拝借金全面停止する至った倹約令発布 宝暦元年1751年)から十一年(1761年)の毎年は米は赤字のときもあったが金は黒字続きだったのが、宝暦十二年から次の明和では米・金ともに赤字続いた明和元年(1764)に米五万石、金五万両の赤字になり、以降明和六年まで金方収支毎年赤字、米も四年以外は毎年赤字になっていた。このように明和以降幕府財政赤字基調になっていた。そのため、明和八年1771)に五年間倹約令発布した明和倹約政策をやめるとまた黒字減っていき、天明の大飢饉による大赤字起きた。それに対応するために天明三年(1783)に七年間の倹約令発布し、更に厳し倹約政策実施した。また天明3年には大飢饉最中諸役人年貢量は維持冥加運上増額堤防道路工事費減額する命じている。 御用金大坂西町奉行佐野政親を担当とし、天明3年大名への融資財源として、大坂豪商対し145千両もの『御用金令』を命じた。この金は実際に幕府金蔵収めるわけではなく商人たちの手元に留めておき、大名から融資申し込みがあれば大坂町奉行所返済保証をつけ貸し付けるというものだった年利8%であり、そのうち幕府2.5%、商人は5.5%の利益を得るというものだった。だが大名からの返済滞っていることから商人たち貸し渋ったため、天明五年に改め大名側から年貢担保として設定し同様の仕組み利息7%うち1%上納する御用金令が出される当時天明の大飢饉により大名資金繰り問題がより深刻化しており、そこから大名救済幕府財政支出削減、新財源創出という三つ達成できる施策であったが、結局商人たち融資そのもの対す強制力無かったため、またまた貸し渋り起こり実効性がないまま天明六年(1786)に中止となった貸金会所 御用金令の失敗受けて天明六年(1786)、新たに構想されたのが貸金会所設立である。これはある種の「政府銀行」「国債」ともいえる先進的な試みであった天明の大飢饉により資金繰り困窮している諸大名への融資を行うため、諸国寺社山伏は、その規模などに応じて最高15両を、全国百姓持ち高100石につき銀25匁を、諸国町人は、所持する家屋敷間口広さ 1間につき銀3匁を、この年から5年毎年幕府に対して支払うように命令した貸金会所通じて年利7%で大名貸し出され、五年後以降7%の貸付利息から事務手数料引いた利息をつけて出資者返済されるという仕組みである。ほぼ全国民対す強制的な徴収である一方で五年後に利息がついて返ってくる仕組みであり、現代にも通ず先進的な試みではあったが、負担求められる側にとっては、たださらなる負担強いられるだけにしか見えず、しかも天明の大飢饉真っただ中での「増税」案ということもあって反発大きかった。また借り手である大名の方も、確かに市中金利よりも低金利借りられるメリットはあるが、原資領民でもある百姓町人から取り立てた金であり、幕府の「貸金会所」を通じて借りということは藩の内情幕府知られてしまうことになる。この点で大名たちから反発大きく結局発令の2ヵ月後には早くも関東大水害などを理由御用金令は撤回された。 広く薄い課税 上に書かれ通り株仲間の推奨や、長崎会所立て直し貨幣発行益などを行った田沼意次増税広く浅くであった株仲間からの冥加金としては、京飛脚仲間初年度30両、以降10両、江戸三度飛脚仲間初年度17以降銀5などと規模大きな株仲間としては冥加金の額が少なく財政収入増加という点でどれほど効果があったのか、疑問差し込む余地もあったが、広く浅く課税をして少しでも財政収入増加させようという意図見受けられる農村へも安永元年1772年幕府は、農村に対しても、酒造醤油・酢醸造絞油水車稼ぎといった項目名具体的に挙げ、更にそれ以外品目でも、僅かでも稼ぎがあるなら冥加金上納させろと諸役人命じている。

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