田沼町の須賀田
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終戦後も、病弱な須賀田は田沼町(現・佐野市)に留まった。疎開当初は会社事務の仕事に携わったが、持病の肺結核の発作のため実家で療養生活に専念する事を余儀無くされた。戦前様々な入賞歴を誇った彼の管弦楽曲の数々も、戦後は再演の機会はおろか存在すら無視された。音楽学校出身など学閥とは無縁で楽界との付き合いが薄かったこともあり、須賀田は次第に中央楽壇から忘れられていく。戦前からの繋りで時折NHK(旧JOAK)から作曲依頼がくるものの、多くは通俗的な小品や民謡の編曲といった依頼であった。しかしそんな中にあっても、須賀田は決して自らの創作活動を滞らせることはなかった。 戦争で疲弊した人々が今、何より明るい明日を感じ取れるような音楽を求めているのであれば、いま自分が果たすべき役割は、そのような分野で努力する事しかないのだ。 こうして通俗的小品の分野で、須賀田は「行進曲集・第二輯」Op.17、「通俗楽曲集 第1輯」Op.21, 「通俗楽曲集 第2輯」Op.24など、多くの作品を産み出した。1950年(昭和25年)、NHKラジオ歌謡に応募するために作曲した「ご飯の歌」(深尾須磨子/作詩)が入選する。その報に接した須賀田は、次のような感想を述べている。 NHK25周年記念ラヂオ歌謡懸賞募集5種目の内、全883曲の中から5曲當選---1種1曲、佳作なり---その内の1曲"ごはんの歌"に當選---此れが入選とは全く意外なり。昭和25年3月17日発表。 3月21日、小野淑子の独唱によりNHKから初放送されて以後、「ご飯の歌」は地元・田沼町の人々に歌い継がれ、その後須賀田音楽の復権に重要な役割を果たす事となる。田沼町の父親の実家では、その二階が須賀田の仕事部屋であった。彼の作曲に打ち込む姿勢は厳しく、仕事部屋でピアノを弾いている時は、家族の誰もが恐がって近付けなかったという。楽想に行き詰まった時など、集中するため深夜でも頭から冷水をかぶり、自らを奮い立たせ作曲を続けた。 伯父様が良いとおっしゃらなければ、私たちは決して二階の仕事部屋には入ってはならないことになっていました。でも作曲に疲れた時など私たち子供を部屋に招き入れ、一緒に遊んでくれたことを覚えています。伯父は手先がとても器用で、機関車の模型などを作る事も得意でした。 ある日、伯父の自転車に乗せてもらって、イナゴ採りに行ったことがありました。「これが、イナゴだよ」伯父に教えられ、私は面白くて夢中でイナゴを取りました。そして、二人で大収穫をあげる事が出来たんです。「陽ちゃん、うまいね・・・」伯父は優しく誉めてくれました。その時の青い空、広い野原の緑、伯父に乗せてもらった自転車の黒いフレーム、そして自転車の後ろでしっかり伯父につかまったワイシャツの白とが、まるで映画のシーンのように、今も私の中に鮮明に残っています。 須賀田は決して仕事部屋に閉じこもるばかりでなく、地域の人々と音楽を通じ積極的に関わった。1947年(昭和22年)、田沼町南部青年団の求めに応じその団歌を作曲したのを皮切りに、その後も田沼小学校・中学校の校歌や飛駒音頭などの民謡を、求められるままに次々と作曲した。こうした楽曲の譜面のかたすみに、次のような記述が見られる。 一流歌人、詩人の作品に作曲することは結構であるが、斯うした素人の作詩も又結構である。此等の中から自分のアイデアーが生まれ、楽曲が生れる。 須賀田は地域の人々に音楽の指導も行なった。猛暑のなか南部青年団の指導のため練習場への長い道のりを顔にいっぱい汗をかきながら自転車を漕ぐ須賀田に、人々真の芸術家の姿を見た。 偉ぶったところが一つもなくて・・・親戚の話とか気さくにしてくれて、いつもアルバムなんか見せてくれたので、私なんか大きい写真、どんどんもらっちゃったんですよ りっぱな先生だってことは意識してましたけど、微笑みの絶えない方でした かつて須賀田からピアノを習い、のちに田沼小学校で音楽教師を勤めた尾花陽子は、須賀田からレッスンを受けていた時、頼まれて出来たての校歌を小学校に急いで届けた日のことを、よく覚えていた。 いつも眼鏡の奥から優しい瞳で、本当に作曲の大家である先生とは思えないような、初心者にも優しい暖かい指導をして下さった、思い出深い先生です 須賀田がその団歌を作曲し、合唱の指導もした田沼町南部青年団の元メンバーの声を以下に記す。 何も出来ない我々をちゃんと指導して下さった、とにかく面倒見のいい方でした 常にニコニコして、とにかくいい人でした 挨拶なんかすると、ニコニコッて面長の顔で優しい笑顔を見せてくれました。それはものすごーい印象でしたね。いろいろな面で文化っていうか、そういうものの芽を作っていただいた気がします 彼の仕事部屋からは、訪ねて来た町の人々と語り合う須賀田の笑い声が、よく聞かれたという。
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