田沼政権との連続性
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通説では松平定信は田沼意次の政策をことごとく覆したとされるが、近年ではむしろ寛政の改革には田沼政権との連続面があったと指摘される。 徳川黎明会徳川林政史研究所編著「江戸時代の古文書を読む―寛政の改革」においては、「定信の反田沼キャンペーンは、かなり建前の面が強く、現実の政治は、田沼政治を継承した面が多々みられる。とくに学問・技術・経済・情報等の幕府への集中をはかったことや、富商・富農と連携しながらその改革を実施したことなどは、単なる田沼政治の継承というより、むしろ田沼路線をさらに深化させたといってよいであろう」と述べている。 日本中世・近世史を専門とする高木久史は近年では定信と田沼政権との間には連続面があったことも重視されているとし、その一つとして通貨政策をあげている。定信は1788年、江戸の物価を抑えるために明和二朱銀の製造を停止し元文銀を増産させた。高木は「製造は停止したが、通用は停止していない。あくまで金貨・銀貨相場を是正しようとしたものであり、田沼政権の通貨政策そのものを否定しようとしたわけではない。1790年には、二朱銀を、あまり通用していなかった西日本の各国でも使うよう強制した。結果、金貨単位計量銀貨の使用がむしろ定信政権の時期になって広まった。新井白石が萩原重秀の通貨政策をことごとく覆したことと対照的である」と述べている。 他の通貨政策としては田沼は金札・銭札、許可したもの以外の銀札の通用を停止するなど、紙幣経済の発達を阻害するような政策を行ったが、定信は寛政2年(1790年)に伊勢神宮の御師や伊勢山田商人が発行していた山田羽書を山田奉行(伊勢奉行)発行に変更し、準備金の範囲内での発行、偽札対策などを徹底させるなどしており、山田羽書は事実上の幕府発行の紙幣といえる状態にするなど紙幣政策においては、むしろ田沼よりも進歩的であった。山田羽書は山田奉行所の管理下に置かれたことにより、商人の都合による乱発が防がれ、通貨供給量が安定することとなった。 日本近世史を研究する藤田覚は自書「勘定奉行の江戸時代」の中で、寛政の改革・遺老の経済政策を評して「寛政から文化期の財政経済政策は、緊縮により財政収支の均衡を図ることを基本とし、批判の強かった運上・冥加金の請負事業の一部を撤回したが、基本的に田沼時代を引き継ぎ、独自の積極的な増収策をみることはできない」と述べている。同様に高澤憲治は「幕府が改革において講じた経済政策は、株仲間や冥加金、南鐐二朱判、公金貸付など、実は田沼政権のそれを継承したものが多かった」(p90)と述べている。 株仲間をことごとく解散させたなる通説とは異なり、定信は大部分の株仲間を存続させている。改革当初、二朱銀の鋳造と株仲間を結成させて運上金を徴収したことが物価高騰の原因だとして、二朱銀と株仲間の廃止を上書する者たちがいたが、定信は株仲間に対し物価の調整とともに運上金の上納にも期待していたため、改革当初に株仲間と運上金をごく少数廃止したほかは大部分を存続させた。また天明七年には自領にて治安維持のため質屋株仲間を結成させて高利に苦しむ人々の救済をはかっている(p4)(p87,161)。 田沼時代に構想された蝦夷開発を否定したとも通説で言われるが、実際には寛政の改革当時の定信を含め幕閣の間において蝦夷開発構想はむしろ肯定的に支持されていた。藤田覚は蝦夷開発の構想は田沼失脚後も勘定所を中心に老中を含む幕府のかなりの部分にまで支持されて浸透していたと述べている。その後、他の老中が主張する松前藩から領地を取り上げての強引な幕府主導の開発ではなく松前藩が蝦夷地の支配権を幕府に投げ出すのを待ち、東北諸大名に分割して開発させる構想を描いていた定信が失脚したことを契機に寛政11年に東蝦夷地の幕府直轄にしての開発が開始された。その後、文化4年(1807)に松前を含む全蝦夷地が幕府直轄地として編入されることとなった。しかし、この幕府主導による蝦夷開発は最終的にはゴローニン事件の解決による日露の緊張状態が緩和したことによる蝦夷地警衛体制の縮小を理由に文政4年(1821)に中止されることになった。蝦夷地は松前藩に復領された。その後、政府による蝦夷開発は幕末開港期まで停止されることとなった(p90)。 また通説では、田沼を積極財政、定信を緊縮財政とすることが多いが、藤田覚は田沼の政治を「出る金は一文でも減らす」緊縮財政と自書で書いており、藤田は田沼時代の財政経済政策を前代以来の財政緊縮策を継続させたとし、田沼時代を緊縮財政と説明している。 洋書輸入の解禁や株仲間の結成などの享保期の政策が実を結んだ結果として田沼時代が誕生したとされ、田沼時代は享保期からの延長線のものと論ずるのが現在の通説となっている。同時に定信が発布した天明7年から3年間の倹約令を指して田沼の積極財政から逆転する緊縮政策だと語られることも多いが、実際には田沼自身が天明3年より7年間の倹約令を発布しているため、少なくとも定信の天明7年の倹約令は、田沼の倹約令の残りの年数を消化しようという田沼の政策をそのまま追認したものである。定信の緊縮政策は実際には田沼の緊縮政策を追認、深化した田沼政治からの連続性といえるものも多い。
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田沼政権との連続性
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通説では松平定信は田沼意次の政策をことごとく覆したとされるが、近年ではむしろ寛政の改革には田沼政権との連続面があったと指摘される。 徳川黎明会徳川林政史研究所編著「江戸時代の古文書を読む―寛政の改革」においては、「定信の反田沼キャンペーンは、かなり建前の面が強く、現実の政治は、田沼政治を継承した面が多々みられる。とくに学問・技術・経済・情報等の幕府への集中をはかったことや、富商・富農と連携しながらその改革を実施したことなどは、単なる田沼政治の継承というより、むしろ田沼路線をさらに深化させたといってよいであろう」と書いている。 日本中世・近世史を専門とする高木久史は自書「通貨の日本史」の中で、近年では定信と田沼政権との間には連続面があったことも重視されていると書き、その一つとして通貨政策をあげている。定信は1788年、江戸の物価を抑えるために明和二朱銀の製造を停止し元文銀を増産させた。定信は田沼が発行した二朱銀を否定していたという通説があるが、高木は「製造は停止したが、通用は停止していない。あくまで金貨・銀貨相場を是正しようとしたものであり、田沼政権の通貨政策そのものを否定しようとしたわけではない。1790年には、二朱銀を、あまり通用していなかった西日本の各国でも使うよう強制した。その結果、金貨単位計量銀貨の使用がむしろ定信政権の時期になって広まった。新井白石が萩原重秀の通貨政策をことごとく覆したことと対照的である」と書いている。 他の通貨政策としては吉宗は紙幣の通用を解禁したが、田沼は金札・銭札、許可したもの以外の銀札の通用を停止するなど、紙幣経済の発達を阻害するような政策を行ったが、松平定信は寛政2年(1790年)に伊勢神宮の御師や伊勢山田商人が発行していた山田羽書を山田奉行(伊勢奉行)発行に変更し、準備金の範囲内での発行、偽札対策などを徹底させるなどといった近代的な紙幣政策をおこなっており、山田羽書は事実上の幕府発行の紙幣といえる状態にするなどと紙幣政策においては、むしろ田沼よりも進歩的な政策を行っている。山田羽書が幕府すなわち山田奉行所の管理下に置かれたことにより、商人の都合による乱発が防がれ、通貨供給量が安定することとなった。 日本近世史を研究する藤田覚は自書「勘定奉行の江戸時代」の中で、「寛政から文化期の財政経済政策は、緊縮により財政収支の均衡を図ることを基本とし、批判の強かった運上・冥加金の請負事業の一部を撤回したが、基本的に田沼時代を引き継ぎ、独自の積極的な増収策をみることはできない」と書き、寛政の改革・遺老の経済政策は独自の政策はないものの、運上・冥加金の一部撤回を除けば、基本的に田沼時代を引き継いでいると述べている。同様に高澤憲治が自著「松平定信」において「幕府が改革において講じた経済政策は、株仲間や冥加金、南鐐二朱判、公金貸付など、実は田沼政権のそれを継承したものが多かった」(p90)と述べている。 実際、藤田覚や高澤憲治が述べた通り株仲間をことごとく解散させたなる通説とは異なり、定信は大部分の株仲間を存続させている。改革当初、株仲間を結成させて運上金を徴収したことが物価高騰の原因だとして、株仲間の廃止を上書する者たちがいたが、定信は株仲間に対し物価の調整とともに運上金の上納にも期待していたため、改革当初に株仲間と運上金をごく少数廃止したほかは大部分を存続させている。また、天明七年には自領にて治安維持のため質屋株仲間を結成させて高利に苦しむ人々の救済をはかっている(p87,161)。 田沼時代に構想された蝦夷開発を否定したとも通説で言われるが、実際には寛政の改革当時の定信を含め幕閣の間において蝦夷開発構想はむしろ肯定的に支持されていた。藤田覚は蝦夷開発の構想は田沼失脚後も勘定所を中心に老中を含む幕府のかなりの部分にまで支持されて浸透していたと述べている。その後、他の老中が主張する松前藩から領地を取り上げての強引な幕府主導の開発ではなく松前藩が蝦夷地の支配権を幕府に投げ出すのを待ち、東北諸大名に分割して開発させる構想を描いていた定信が失脚したことを契機に寛政11年に東蝦夷地の幕府直轄にしての開発が開始された。その後、文化4年(1807)に松前を含む全蝦夷地が幕府直轄地として編入されることとなった。しかし、この幕府主導による蝦夷開発は最終的にはゴローニン事件の解決による日露の緊張状態が緩和したことによる蝦夷地警衛体制の縮小を理由に文政4年(1821)に中止されることになった。蝦夷地は松前藩に復領された。その後、政府による蝦夷開発は幕末開港期まで停止されることとなった(p131)。 また通説では、田沼を積極財政、定信を緊縮財政とすることが多いが、藤田覚は田沼の政治を「出る金は一文でも減らす」支出を減らす緊縮財政と自書で書いており、藤田は田沼時代の財政経済政策を前代以来の財政緊縮策を継続させたとし、田沼時代を緊縮財政と説明している。 歴史の流れとして田沼時代を享保・寛政の改革とは別のものではなく、洋書輸入の解禁や株仲間の結成など享保期の政策が実を結んだ結果として田沼時代が誕生したのであって、意次の登場によって唐突に田沼時代という新しい時代が到来したのではなく、田沼時代を享保期からの延長線のものと論ずるのが現在の通説となっている。同時に定信が寛政改革発足時に発布した天明7年の3年間の倹約令を指して田沼の積極財政から逆転する緊縮政策だと通説で語られることも多いが、実のところは、田沼自身が天明3年より、7年間の倹約令を発布しているので、少なくとも定信が行った天明7年からの3年間の倹約令は田沼の政策からの逆転どころか、田沼失脚によって行われなかったはずの残りの年数を消化しようという田沼の政策をそのまま追認したものである。このように、田沼と定信を指し、積極財政VS緊縮財政などと言われがちであるが、実際のところは定信の緊縮政策は田沼の緊縮政策を追認、深化した田沼政治からの連続性といえるものも多い。
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