田沼政権との連続性とは? わかりやすく解説

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田沼政権との連続性

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 02:19 UTC 版)

寛政の改革」の記事における「田沼政権との連続性」の解説

通説では松平定信田沼意次政策ことごとく覆したとされるが、近年ではむしろ寛政の改革には田沼政権との連続面があったと指摘される徳川黎明会徳川林政史研究所編著江戸時代古文書を読む―寛政の改革においては、「定信反田キャンペーンは、かなり建前の面が強く現実政治は、田沼政治継承した面が多々みられる。とくに学問・技術経済情報等の幕府への集中はかったことや、富商富農連携しながらその改革実施したことなどは、単なる田沼政治継承というより、むしろ田沼路線をさらに深化させたといってよいであろう」と述べている。 日本中世近世史専門とする高木久史は近年では定信田沼政権との間には連続面があったことも重視されているとし、その一つとして通貨政策をあげている。定信1788年江戸物価抑えるために明和二朱銀製造停止し元文銀を増産させた。高木は「製造停止したが、通用停止していない。あくまで金貨銀貨相場是正しようしたものであり、田沼政権通貨政策そのもの否定しようとしたわけではない1790年には、二朱銀を、あまり通用していなかった西日本各国でも使うよう強制した結果金貨単位計量銀貨使用がむしろ定信政権時期になって広まった新井白石萩原重秀の通貨政策ことごとく覆したことと対照的である」と述べている。 他の通貨政策としては田沼金札銭札許可したもの以外の銀札通用停止するなど、紙幣経済発達阻害するような政策行ったが、定信寛政2年1790年)に伊勢神宮御師伊勢山田商人発行していた山田羽書山田奉行(伊勢奉行)発行変更し準備金範囲内での発行偽札対策など徹底させるなどしており、山田羽書事実上幕府発行紙幣といえる状態にするなど紙幣政策においては、むしろ田沼よりも進歩的であった山田羽書山田奉行所管理下に置かれたことにより、商人都合による乱発防がれ通貨供給量安定することとなった日本近世史研究する藤田覚自書勘定奉行江戸時代」の中で、寛政の改革遺老経済政策評して寛政から文化期の財政経済政策は、緊縮により財政収支均衡を図ることを基本とし、批判強かった運上冥加金請負事業一部撤回したが、基本的に田沼時代引き継ぎ、独自の積極的な増収策をみることはできない」と述べている。同様に高澤憲治は「幕府改革において講じた経済政策は、株仲間冥加金南鐐二朱判、公金貸付など、実は田沼政権のそれを継承したものが多かった」(p90)と述べている。 株仲間ことごとく解散させたなる通説とは異なり定信大部分株仲間存続させている。改革当初二朱銀鋳造株仲間結成させて運上金徴収したことが物価高騰原因だとして、二朱銀株仲間廃止上書する者たちがいたが、定信株仲間対し物価調整とともに運上金の上納にも期待していたため、改革当初株仲間運上金をごく少数廃止したほかは大部分存続させた。また天明七年には自領にて治安維持のため質屋株仲間結成させて高利苦し人々救済はかっている(p4)(p87,161)。 田沼時代構想された蝦夷開発否定したとも通説言われるが、実際に寛政の改革当時定信含め幕閣の間において蝦夷開発構想はむしろ肯定的に支持されていた。藤田覚蝦夷開発構想田沼失脚後勘定所中心に老中を含む幕府かなりの部分にまで支持され浸透していたと述べている。その後、他の老中主張する松前藩から領地取り上げて強引な幕府主導開発ではなく松前藩蝦夷地支配権幕府投げ出すのを待ち東北諸大名分割して開発させる構想描いていた定信失脚したことを契機寛政11年東蝦夷地幕府直轄にしての開発開始された。その後文化4年(1807)に松前を含む全蝦夷地幕府直轄地として編入されることとなった。しかし、この幕府主導による蝦夷開発最終的にゴローニン事件解決による日露緊張状態緩和したことによる蝦夷地警衛体制縮小理由文政4年(1821)に中止されることになった蝦夷地松前藩に復領された。その後政府による蝦夷開発幕末開港期まで停止されることとなった(p90)。 また通説では、田沼積極財政定信緊縮財政とすることが多いが、藤田覚田沼の政治を「出る金は一文でも減らす」緊縮財政自書書いており、藤田田沼時代の財政経済政策前代以来財政緊縮策継続させたとし、田沼時代緊縮財政説明している。 洋書輸入解禁株仲間の結成などの享保期の政策実を結んだ結果として田沼時代誕生したとされ、田沼時代享保期からの延長線のものと論ずるのが現在の通説となっている。同時に定信発布した天明7年から3年間の倹約令指して田沼積極財政から逆転する緊縮政策だと語られることも多いが、実際に田沼自身天明3年より7年間の倹約令発布しているため、少なくとも定信天明7年倹約令は、田沼倹約令残りの年数を消化しようという田沼政策そのまま追認したものである。定信緊縮政策実際に田沼緊縮政策追認深化した田沼政治からの連続性といえるものも多い。

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田沼政権との連続性

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:48 UTC 版)

松平定信」の記事における「田沼政権との連続性」の解説

通説では松平定信田沼意次政策ことごとく覆したとされるが、近年ではむしろ寛政の改革には田沼政権との連続面があったと指摘される徳川黎明会徳川林政史研究所編著江戸時代古文書を読む―寛政の改革においては、「定信反田キャンペーンは、かなり建前の面が強く現実政治は、田沼政治継承した面が多々みられる。とくに学問・技術経済情報等の幕府への集中はかったことや、富商富農連携しながらその改革実施したことなどは、単なる田沼政治継承というより、むしろ田沼路線をさらに深化させたといってよいであろうと書いている。 日本中世近世史専門とする高木久史は自書通貨日本史」の中で、近年では定信田沼政権との間には連続面があったことも重視されていると書き、その一つとして通貨政策をあげている。定信1788年江戸物価抑えるために明和二朱銀製造停止し元文銀を増産させた。定信田沼発行した二朱銀否定していたという通説があるが、高木は「製造停止したが、通用停止していない。あくまで金貨銀貨相場是正しようしたものであり、田沼政権通貨政策そのもの否定しようとしたわけではない1790年には、二朱銀を、あまり通用していなかった西日本各国でも使うよう強制したその結果金貨単位計量銀貨使用がむしろ定信政権時期になって広まった新井白石萩原重秀の通貨政策ことごとく覆したことと対照的である」と書いている。 他の通貨政策としては吉宗紙幣通用解禁したが、田沼金札銭札許可したもの以外の銀札通用停止するなど、紙幣経済発達阻害するような政策行ったが、松平定信寛政2年1790年)に伊勢神宮御師伊勢山田商人発行していた山田羽書山田奉行(伊勢奉行)発行変更し準備金範囲内での発行偽札対策など徹底させるなどといった近代的な紙幣政策をおこなっており、山田羽書事実上幕府発行紙幣といえる状態にするなどと紙幣政策においては、むしろ田沼よりも進歩的な政策行っている。山田羽書幕府すなわち山田奉行所管理下に置かれたことにより、商人都合による乱発防がれ通貨供給量安定することとなった日本近世史研究する藤田覚自書勘定奉行江戸時代」の中で、「寛政から文化期の財政経済政策は、緊縮により財政収支均衡を図ることを基本とし、批判強かった運上冥加金請負事業一部撤回したが、基本的に田沼時代引き継ぎ、独自の積極的な増収策をみることはできないと書き寛政の改革遺老経済政策は独自の政策はないものの、運上冥加金一部撤回除けば基本的に田沼時代引き継いでいると述べている。同様に高澤憲治が自著松平定信」において「幕府改革において講じた経済政策は、株仲間冥加金南鐐二朱判、公金貸付など、実は田沼政権のそれを継承したものが多かった」(p90)と述べている。 実際藤田覚高澤憲治が述べた通り株仲間ことごとく解散させたなる通説とは異なり定信大部分株仲間存続させている。改革当初株仲間結成させて運上金徴収したことが物価高騰原因だとして、株仲間廃止上書する者たちがいたが、定信株仲間対し物価調整とともに運上金の上納にも期待していたため、改革当初株仲間運上金をごく少数廃止したほかは大部分存続させている。また、天明七年には自領にて治安維持のため質屋株仲間結成させて高利苦し人々救済はかっている(p87,161)。 田沼時代構想された蝦夷開発否定したとも通説言われるが、実際に寛政の改革当時定信含め幕閣の間において蝦夷開発構想はむしろ肯定的に支持されていた。藤田覚蝦夷開発構想田沼失脚後勘定所中心に老中を含む幕府かなりの部分にまで支持され浸透していたと述べている。その後、他の老中主張する松前藩から領地取り上げて強引な幕府主導開発ではなく松前藩蝦夷地支配権幕府投げ出すのを待ち東北諸大名分割して開発させる構想描いていた定信失脚したことを契機寛政11年東蝦夷地幕府直轄にしての開発開始された。その後文化4年(1807)に松前を含む全蝦夷地幕府直轄地として編入されることとなった。しかし、この幕府主導による蝦夷開発最終的にゴローニン事件解決による日露緊張状態緩和したことによる蝦夷地警衛体制縮小理由文政4年(1821)に中止されることになった蝦夷地松前藩に復領された。その後政府による蝦夷開発幕末開港期まで停止されることとなった(p131)。 また通説では、田沼積極財政定信緊縮財政とすることが多いが、藤田覚田沼の政治を「出る金は一文でも減らす」支出を減らす緊縮財政自書書いており、藤田田沼時代の財政経済政策前代以来財政緊縮策継続させたとし、田沼時代緊縮財政説明している。 歴史の流れとして田沼時代享保・寛政改革とは別のものではなく洋書輸入解禁株仲間の結成など享保期の政策実を結んだ結果として田沼時代誕生したであって、意次の登場によって唐突に田沼時代という新し時代到来したではなく田沼時代享保期からの延長線のものと論ずるのが現在の通説となっている。同時に定信寛政改革発足時発布した天明7年3年間の倹約令指して田沼積極財政から逆転する緊縮政策だと通説語られることも多いが、実のところは、田沼自身天明3年より、7年間の倹約令発布しているので、少なくとも定信が行った天明7年からの3年間の倹約令田沼政策からの逆転どころか田沼失脚によって行われなかったはずの残りの年数を消化しようという田沼政策そのまま追認したものである。このように田沼定信指し積極財政VS緊縮財政などと言われがちであるが、実際のところは定信緊縮政策田沼緊縮政策追認深化した田沼政治からの連続性といえるものも多い。

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