田沼意次の通貨政策と物価の高騰
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「天明の打ちこわし」の記事における「田沼意次の通貨政策と物価の高騰」の解説
田沼時代を代表する政策の一つとして通貨政策が挙げられる。田沼が取り組んだ通貨政策は大きく二つあった。まず第一の政策は江戸を中心とした関東、東国経済圏で行われていた金を基本とした経済と、大坂、京都を中心として西日本、裏日本を中心として行われていた銀を基本とした経済を統合していこうと試みた。これは長年の慣習もあって定着してしまっていた東日本の金使いの経済と、西日本、裏日本の銀使いの経済であったが、経済の発展に伴い流通が盛んになるにつれて、金使いと銀使いの経済が並立することによる弊害が目立つようになっており、田沼は経済の一元化を目指し両経済の統合を図った。 田沼はまず明和2年(1765年)に明和五匁銀を発行した。これは西日本、日本海側を中心として流通していた丁銀、豆板銀が秤量貨幣であったのに対し、五匁銀12枚で一両に相当するという計数貨幣として発行された。しかしこの時の試みは金と銀との交換によって生計を成り立たせてきた両替商の抵抗に遭い、市場では五匁銀12枚で一両という計数貨幣としての通用をせず、これまでの丁銀、豆板銀と同じような金貨との交換相場が立てられてしまい、もくろみは失敗に終わった。しかし明和五匁銀の失敗後、安永元年(1772年)には南鐐二朱銀が発行された。南鐐二朱銀は表面に8枚で小判一両となる旨が明記されており、明和五匁銀と同じく計数貨幣としての流通を図った銀貨であった。 両替商の抵抗など紆余曲折はあったものの、南鐐二朱銀は徐々に西日本などにも浸透していった。南鐐二朱銀の発行直前、金貨不足により公定レートである一両=銀60匁という相場から大幅に金高、銀安の一両が銀68-70匁という相場であった。しかし金と直接リンクした計数貨幣である南鐐二朱銀が定着するにつれて相場は安定し、安永末から天明半ばかけては公定レートである一両=銀60匁付近に落ち着いた。しかし南鐐二朱銀の発行量が増えるに従い、天明中期以降、今度は一転金安、銀高の相場となり、天明6年後半には一両=銀50匁に近づくという著しい銀高相場となった。これは南鐐二朱銀の流通量が過大となってしまった点に加えて、南鐐二朱銀の流通が江戸、京都、大坂の三都に偏り地方にはあまり行き渡らなかったため、江戸、京都、大坂での供給過剰が顕著になった上に、これまで南鐐二朱銀の流通を促進してきた田沼の経済政策への不信が著しい金安、銀高の相場をもたらす要因となった。 田沼意次の通貨政策のもう一つの柱が銭相場の安定化であった。公定レートは銭4000枚(4000文)が一両であったが、経済の発展に伴い庶民が主に用いる銭の需要が増大したことが原因で、公定レートよりも銭が高い相場が続いていた。また銀相場の維持は銀中心の経済であった大坂市場の強化にも繋がると判断し、田沼政権は明和2年(1765年)には江戸の亀戸などで銭の鋳造を進めたが、明和5年(1768年)水戸藩に鉄を用いた銭の鋳造を認め、さらに同年、真鍮四文銭の鋳造を開始したことにより、今度は一両が5500文になるほどの大幅な銭安相場へと転じてしまった。田沼政権は銭の価値を高め相場を安定させるために鋳造量を減らす対策を立てたものの、銭の価値は高まらなかった。 天明年間後半は、南鐐二朱銀と銭の流通量過大を主因とした金、銀、銭の相場の混乱が顕著となり、物価高を引き起こす要因の一つとなった。特に庶民が主に用いる銭の価値下落は購買力低下に直結し、天明の大飢饉の影響による米価高騰とのダブルパンチを受ける形となった庶民の生活は厳しさを増し、田沼政権に対する不満が高まっていった。
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