田沼家との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 07:59 UTC 版)
義父の忠友は元々田沼意次の四男・意正を養子としており(水野忠徳を名乗らせる)、田沼派の中心人物だったが、意正の兄・意知の暗殺および将軍家治の死去以降、意次が急速に失脚する中で、意正の養子縁組を解消・離縁して田沼派から脱し、新たに忠成を婿に迎えた経緯があった。 その後田沼家は没落し、遠江相良5万7000石から陸奥下村1万石へ減封され、やがて意知の遺児たちの死後に意正が家督を継ぐこととなる。忠成は老中となると、意正を若年寄に抜擢し、田沼家を旧領の遠江相良へ復帰させている。
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