田沼時代の幕府の経済状況
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「田沼時代」の記事における「田沼時代の幕府の経済状況」の解説
明和年間までの田沼時代前期、向山誠斎の雑記にて明和7年(1770年)には、江戸城と大阪城の金蔵を合わせて300万両の金銀が詰まっていたと記載される。また松平定信は、自叙伝「宇下人言」の中で、元禄から寛政までの約百年間で、幕府の貯え金がもっとも充実していたのは明和年間だと書いている。ただし、これは幕府の貯蓄が豊かだったという意味であり、幕府の収入である財政収支が豊かな時代だったという意味ではない。実際の明和年間の幕府の財政収支は明和年間の1764年から1772年の8年の内の6年が米・金ともに赤字を記録し、赤字のない年は明和8年以外なく、実際の明和年間は黒字基調ではなく赤字基調な期間であった。 宝暦・明和期は大旱魃や洪水など天災が多発していた。明和の大火では死者は1万4700人、行方不明者は4000人を超えている。このような変事が続いたため年号を安永に変更し安寧を願った。当時の落首でも「明和九も昨日を限り今日よりは 壽命久しき安永の年」とうたっており天災が収まることが願われている。 このように明和期の幕府財政収支は思わしいものではないため、明和年間に充実していたという備蓄金は田沼の代表政策である株仲間の推奨や俵物生産奨励を勧めた明和年間ではなく、享保の改革の時期の備蓄金に加えて、郡上一揆などが起こった高年貢率の時代であった享保の改革から宝暦期までに貯えられてきたものであった。 八代吉宗から九代家重に代わってからの明和に入るまでの20年間のうち最初の10年の幕府の平均年貢率は、享保の改革末期の十年の平均年貢率である34.38%を超える37.48%の高率であった。そして、その後の残りの10年も税率はほぼ同じ数値で推移しており、一八世紀以降では幕府年貢率のピークを迎えていた。 全体的な田沼時代の幕府財政を年貢米・年貢金などの単年度収支からとらえると、田沼時代は毎年のように膨大な黒字があった時代ではなかった。田沼時代の幕府財政推移をとらえると、宝暦の好調期、明和の不調期、安永の安定期、天明の大不調期という推移を辿っていった。つまり、宝暦末年以降に財政が悪化しはじめ、明和の末頃に5ヵ年の倹約令を発布した効果もあり安永に一時期持ち直したものの、天明には極度に悪化した。最終的には天明8年には豊かと言われた備蓄金が81万両にまで急減している。田沼時代とは全体で見て、天災・疫病、三原山・桜島・浅間山の大噴火、さらには天明の大飢饉と天災地変が多発した時代だった。それでも幕府が破綻しなかったのは家重の時代までに貯えられてきた備蓄金のお陰だった。特に安永から天明期とは、実は享保の改革から宝暦期にかけて備蓄した財産を食いつぶした時期だったといえる。
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