田沼時代の行き詰まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 15:30 UTC 版)
「天明の打ちこわし」の記事における「田沼時代の行き詰まり」の解説
天明期は老中と将軍の側近である側用人を兼任していた田沼意次が政治を主導した、いわゆる田沼時代であった。田沼意次の嫡男である田沼意知は天明期になると奏者番そして若年寄となり、また父と同様に将軍側近も勤め、田沼意次の後継者としての地歩を固めつつあった。 天明期は老中と将軍側近である側用人を兼任し、嫡男を後継者とする布石を着々と進めるなど、田沼意次の権勢は絶頂期を迎えていた反面、田沼政治の限界もまた顕著になっていた。まず安永期に小康状態を保っていた幕府財政は天明期に入ると極度に悪化した。これはもちろん天明の大飢饉、浅間山の大噴火などの続発した災害が幕府収入を減少させた半面、支出の増加を招いたことが大きく影響していた。 そして田沼意次が主導してきた政策の行き詰まりもまた明らかになってきた。田沼時代の特徴の一つとして、幕府財政を健全化させることを目的とした収入増加策に積極的に取り組んだことが挙げられるが、その収入増加策の立案、運用が場当たり的なものが多く、多くの政策が利益よりも弊害の方が目立つようになって撤回に追い込まれるようになっていた。そして幕府に運上金、冥加金の上納を餌に自らの利益をもくろんで献策を行う町人が増え、そのような町人の献策を幕府内での出世を目当てに採用していく幕府役人が現れ、町人と幕府役人との癒着も目立つようになった。このような風潮は「山師、運上」という言葉で語られ、利益追求型で場当たり的な面が多く、腐敗も目立ってきた田沼意次の政策に対する批判が強まっていた。 また田沼家はもともと600石の旗本で、意次は幕府役人から第9代将軍・徳川家重、そして第10代将軍・徳川家治の側近となってその実力が認められ、老中になった人物であり、いわゆる成り上がり者であった。そのような田沼意次が先例にとらわれない政策を実行していくことに対して、特に親藩、譜代の大名、旗本などの間に不満が高まっていた。 東北地方の天明の大飢饉がその深刻さを増していた天明4年3月24日(1784年5月13日)、若年寄田沼意知は佐野政言に刃傷され深手を負い、治療の甲斐なく死去する。佐野の凶行の動機は不明であるが、天明の大飢饉の最中で米価高騰に苦しみ、田沼意次の施策に対する批判を強めていた江戸町民は佐野を「世直し大明神」と称え、逆に死去した田沼意知の葬列に投石し悪口を投げつけるという状態であった。 そして若年寄と将軍側近を兼任し、田沼意次の後継者として地歩を固めつつあった嫡子田沼意知の横死は、意次にとって後継者を失ったことになり、その権勢に限りが見え始めた象徴的な事件となった。
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