田沼時代
(宝暦・天明期 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/30 18:58 UTC 版)
田沼時代(たぬまじだい)は、日本の歴史(江戸時代中期)において、老中・田沼意次が幕政に参与していた時期を中心とした時代区分[1][2]。史学上は宝暦・天明期(ほうりゃく・てんめいき)として、宝暦・明和・安永・天明期(1751年-1789年)、すなわち享保の改革と寛政の改革の間の約半世紀の時代を指す[1][3]。意次が権勢を誇った期間を基準とする場合には、定義がいくつかあるが、概ね意次が側用人職に昇格した1767年(明和4年)から意次が失脚する1786年(天明6年)までと説明することが多い[4][5]。単に「田沼期」や「田沼の改革」「田沼の政治」といった呼ばれ方もある[6]。
注釈
- ^ 中奥の最高位である側用人が評定所に出座することはあるが、取次が命じられるのは前代未聞のことだった[12]。
- ^ 民間へ本来行政が行う事業などを肩代わりさせると共に、冥加金を代償とした金融関係への特権の申し込みなどを採用するなどした。当然民間はそこから利益を得ようとするため搾取された庶民が反発・抗議が多発した
- ^ だがしかし、この冥加金などの上納は、例えば、京飛脚仲間は初年度30両、以降は10両、江戸三度飛脚屋仲間は初年度銀17枚、以降銀5枚などと規模の大きな株仲間だったとしても冥加金の額は少額であり、財政収入の増加という点でどれほどの効果があったのか、疑問を差し込む余地あり、幕府の財政収支に与えた影響はあまり大きかったとは考え難く、中井信彦氏などは冥加金は少額な為、財政上の意義は不明として冥加金の財政収入増加説に否定的である。このように歴史学者の間でも田沼時代の幕府の意図をめぐっては、冥加金を上納させることによる財政収入増加策なのか、あるいは株仲間による流通統制、物価安定策だったのかと評価が分かれている[26]
- ^ 田沼時代や田沼意次が汚職政治のイメージで語られたのは辻が始まりではない。上述のように三上の論考や徳富による通史があったり、辻自身が引用している通り、シーメンス事件に関わる貴族院議員の発言がある[31]。辻の論考は佐々木の指摘のように、その意図に反して意次=汚職政治家と学術的に、あるいは中高の教育に引用された経緯がある[16]。また、辻の論旨は民権発達の潮流として当時の民衆が時代や意次をどう認識していたかという部分があり[15]、辻が意次の汚職の根拠として民衆の噂話程度のものすら挙げたという大石の批判は注意が必要である。
- ^ 当時の日本を風聞した金仁謙の『日東壮遊歌』が有名[51]。
出典
- ^ a b c d e f g h i 藤田覚 2012, pp. 1–4, 「田沼時代とは」.
- ^ a b c 広辞苑, 「田沼時代」.
- ^ a b c 国史大辞典 1983, 「宝暦・天明期」佐々木潤之介.
- ^ a b c d 大辞泉, 「田沼時代」.
- ^ a b c 日本史広辞典, 「田沼時代」.
- ^ a b c d e 深谷克己 2010, pp. 1–5, 「田沼時代という呼び方」.
- ^ a b 辻善之助 1980, pp. 11–61, 「意次の専権」.
- ^ a b c d 山田忠雄 1970.
- ^ a b c d e 辻善之助 1980, p. 3, 「例言」.
- ^ a b c 国史大辞典, 「宝暦・天明期」佐々木潤之介.
- ^ 国史大辞典, 「宝暦・天明文化」佐々木潤之介.
- ^ a b c d e f g 藤田覚 2012, pp. 23–39, 「田沼意次の時代」.
- ^ a b 藤田覚 2012, pp. 17–22, 「幕府政治の仕組み」.
- ^ a b c 藤田覚 2012, pp. 210–219, 「田沼時代の終焉」.
- ^ a b c d e f g h i j 辻善之助 1980, pp. 328–342, 「結論」.
- ^ a b c d e f g h i j 辻善之助 1980, pp. 345–357, 解説 佐々木潤之介.
- ^ a b 徳富蘇峰 1927.
- ^ a b 賀川隆行 1992.
- ^ 吉田伸之 2002.
- ^ a b 吉村武彦 1997, 「田沼意次」岩田浩太郎.
- ^ 日本史大事典, 「田沼時代」.
- ^ 日本大百科全書, 「田沼時代」.
- ^ 大辞林, 「田沼時代」.
- ^ a b 藤田覚 2012, pp. 62–65, 田沼時代の幕府財政の動向.
- ^ a b c d 藤田覚『『勘定奉行の江戸時代』』ちくま新書、2018年。ISBN 978-4-480-07113-2。
- ^ 藤田覚 2012, pp. 93–95, 株仲間の積極的公認.
- ^ 「国史大辞典」、吉川弘文館 『繰綿延売買会所』の項
- ^ Fujita, Satoru, 1946-; 藤田覚, 1946-. Tanuma jidai. Tōkyō-to Bunkyō-ku. ISBN 9784642064323. OCLC 794704736
- ^ a b c d e f g h 藤田覚 2002, pp. 6–16, 「善政悪政交代史観と三大改革」.
- ^ a b c 児玉幸多 1980, pp. 14–28, 時代史概説「甍にゆれる太平の華 江戸時代中期」竹内誠.
- ^ a b 辻善之助 1980, pp. 7–9, 「緒言」.
- ^ 大石慎三郎 2001, pp. 259–265, 「解説」田原総一朗.
- ^ 池波正太郎 2002, pp. 358–365, 「解説」常盤新平.
- ^ a b 大石慎三郎 1977, pp. 212–215, 「幕府政治の支配システム」.
- ^ 藤田覚 2002, pp. 83–99, 「悪政の政治構造」.
- ^ 辻善之助 1980, pp. 92–113, 「風俗の淫靡」.
- ^ 藤田覚 2012, pp. 90–92, 「利益追求をめぐる思想対立」.
- ^ 藤田覚 2012, pp. 112–114, 「流通の規制策」.
- ^ 後藤一郎 2019, pp. 88–90, 「田沼政治の全貌」通貨.
- ^ a b 辻善之助 1980, pp. 256–283, 「新気運の潮流」.
- ^ 辻善之助 1980, pp. 284–327, 「学問の発達と開国思想ならびに貿易政策」.
- ^ 辻善之助 1980, pp. 114–132, 「天変地異」.
- ^ 辻善之助 1980, pp. 62–67, 「役人の不正」.
- ^ a b c 大石慎三郎 1977, pp. 203–208, 「誤られた田沼像」.
- ^ 深谷克己 2010, pp. 74–79, 「研究史の宝暦-天明期像」.
- ^ 藤田覚 2002, pp. 17–29, 「享保の改革」.
- ^ 大石慎三郎 1977, pp. 208–212, 「"顔をつなぐ"社会」.
- ^ a b 藤田覚『田沼意次:御不審を蒙ること、身に覚えなし』ミネルヴァ書房、2007年7月10日、157-163頁。
- ^ 藤田覚 2012, pp. 47–58, 「賄賂汚職の時代」.
- ^ 深谷克己『田沼意次―「商業革命」と江戸城政治家』山川出版社、2010年
- ^ 金仁謙 1999.
- ^ 児玉幸多 1980, p. 164, 「年表(1709-1804)」大石学.
- ^ 藤田覚 2002, p. 5.
- ^ 竹内誠 2010.
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