きみまち阪周辺の戦い
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きみまち阪周辺の戦い(きみまちざかしゅうへんのたたかい)は、戊辰戦争のひとつ秋田戦争で、奥羽越列藩同盟に与した盛岡藩が久保田藩を中心とする新政府軍と交戦した一連の戦いのうち、出羽国山本郡のきみまち阪周辺で行われた戦闘である。なお、当時はきみまち阪という名前はなかった。
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- 1 きみまち阪周辺の戦いとは
- 2 きみまち阪周辺の戦いの概要
- 3 脚注
きみまち阪周辺の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 03:02 UTC 版)
久保田藩側は険しい地形で難所として有名だったきみまち阪周辺を防衛地点と決め後退、本陣を荷上場村に置いた。一方盛岡藩側は23日は休兵とし、24日から一部の部隊を前進し始めた。25日盛岡藩本隊は綴子村に到着、さらに本道からきみまち阪方面と、間道の大沢村に向けて進撃した。 25日早朝、佐賀藩の総隊長である田村乾太左衛門が早朝駕籠で荷上場村に向け急行した。26日には乾の部下の生駒小十郎が前線に到着、休む間もなく前線を視察し、本隊到着までの戦闘準備を行う。正午には5名の佐賀兵が到着し、大沢村での戦闘に参加した。 28日盛岡藩側にも佐賀兵の救援の噂が伝わり、きみまち阪の要害を抜こうと、本道と間道両方からの攻撃を行った。本道からの攻撃は、険しい地形を利用し防衛した久保田藩兵により失敗した。本道の村々は撤退する盛岡藩兵によって火をつけられた。また、間道から大沢村に至った部隊は大沢村に火をつけ占領するものの、大沢村から山道を越え撤退した。同夜、佐賀兵の本隊である遊兵隊300名が最新の銃砲を持って荷上場村に到着した。 29日は久保田藩側の総攻撃の日となった。早朝はきびしい寒さとなり、また数歩先も見えないような濃霧の日であった。本道から攻めた久保田藩側は前山村の盛岡藩兵を攻撃、盛岡藩兵はほとんど反撃もできず砲弾を残したまま前山村から潰走し、坊沢村で防衛することになった。坊沢村では激しい戦いになったが、大沢村から間道を越してきた佐竹大和率いる久保田藩側の別部隊と挟み撃ちの形にされ、盛岡藩側は坊沢村に火をつけ総撤退した。 詳細は「きみまち阪周辺の戦い」を参照 8月28日盛岡藩は庄内藩と共同で久保田藩を攻撃しようとし、角館方面にも攻め込んだ。 詳細は「生保内口の戦い」を参照
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