大沢村での戦闘の話題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/19 15:48 UTC 版)
「きみまち阪周辺の戦い」の記事における「大沢村での戦闘の話題」の解説
盛岡軍の最高到達地点である大沢村では、幾つかの言い伝えが残されている。 羽州街道の間道として大沢村、二の又(にのまた)、田子ヶ沢(たごかさわ)、綴子(つづれこ)村のルートがあった。このルートを久保田軍は道の両側にあった杉の巨木を切り倒すことによって封鎖していた。ところが、盛岡軍は獣道に近い滝の沢を通るルートを越え、26日に大沢村に迫った。 久保田藩の二階堂鴻之進は農民を指揮して、山崎の高台(現在は削られてしまい消失)に陣を構え、鉄砲で狙い撃ちしようとした。そこへ盛岡兵が迫ってきた。農兵には敵が200mに近づくまで発砲してはいけないという命令が出されていたが、極度の緊張に晒された農兵は、500mの距離で発砲してしまった。盛岡兵はそれを聞き北方のさらなる高台に移動したため、敵わないと判断した農兵は全員蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。この戦闘では農兵の被害者の記録は残っていない。28日には、この部隊と茱萸岱の部隊との戦闘が川を挟んで行われた。川原は死体でいっぱいだったという。残った盛岡兵は別の山道を通って撤退していった。 滝の沢を侵攻した盛岡軍の中に、なぜか女性が6、7人群れになって歩いていた。その中の一人が顔を下げっぱなしで、泣きながら弱々しく従って歩いている様子が目撃されている。その女の胸には赤子が抱かれていたが、女は時々思い出したように号泣していた。なぜ攻撃隊の隊列に赤子がいる女性まで加わっていたのか。そして、なぜ赤子が殺されなければならなかったのか、その事情は謎として語り継がれている。 27日午前8時ごろ、軍列から離れた兵士が旅人を装って滝の沢の農家を尋ねた。兵士は食事を農民に頼んだが、農民は兵士だということを見抜き、食事を与えながら隙をさぐり、背後から右手を棒で殴り兵士を取り押さえた。兵士は鷹巣で処刑されたが、左手で実に達筆な書をかいた。数年後、その兵士の家族がやってきて刑場に花を添えた。兵士は名のある神主だっという。兵士を取り押さえた農民は後に十手を与えられた。
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