庄内戊辰戦争春の陣とは? わかりやすく解説

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庄内戊辰戦争春の陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/25 02:05 UTC 版)

庄内戊辰戦争春の陣
戦争秋田戦争
年月日慶応4年閏4月4日1868年5月25日
場所山形県村山地方
結果旧幕府軍の勝利
交戦勢力
新政府軍
山形藩など
旧幕府軍
庄内藩など
指導者・指揮官
水野三郎右衛門(山形藩中老) 酒井了恒(庄内軍二番大隊隊長)
戦力
500名 (庄内)
損害
戦死者7名,負傷者5人 戦死者名、負傷者名
戊辰戦争

庄内戊辰戦争春の陣(しょうないぼしんせんそうはるのじん)は、戊辰戦争時、庄内藩征討を命じられた山形藩久保田藩らが、庄内藩と交戦した戦闘のことである。秋田戦争の端緒になった。

経緯

慶応4年(1868年)4月26日に、水野三郎右衛門以下山形隊二番手が天童に至り、28日より寺津、達磨寺村、長崎村落合に布陣した。新政府軍の庄内侵攻計画が閏4月3日から5日に延期されたことで、3日夜半左沢(大江町)を発した庄内側民兵隊が最上川を下り、4日払暁落合を急襲した[1]。この奇襲で山形軍は隊長大久保伝平、司令士の赤星守人以下7名が戦死・5名が負傷、援軍もなく山形城下に潰走した。

庄内軍はその後、寒河江から天童に侵攻した庄内軍と合流して、天童城下の総攻撃を始めた。

その後、戦場は左沢、本道寺方面に移動する。

また、久保田藩は本荘藩矢島藩津軽藩と共同し由利地方に兵を集結し、庄内藩を攻めた。

脚注

  1. ^ この時山形藩は庄内藩と相互不可侵条約の交渉中だったという

参考文献

  • 誉田慶恩、横山昭男『山形県の歴史』山川出版社、1970年
  • 星亮一、戊辰戦争研究委員会編『戊辰戦争を歩く』光人社、2010年
  • 『三百藩戊辰戦争事典 (上)』人物往来社、2000年
  • 『三百藩戊辰戦争事典 (下)』人物往来社、2000年
  • 郡義武『秋田・庄内戊辰戦争』人物往来社、2001年



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