きみまち阪と初雁の御歌
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「明治天皇聖蹟」の記事における「きみまち阪と初雁の御歌」の解説
秋田県能代市二ツ井町にきみまち阪県立自然公園がある。明治天皇は1881年の巡幸で当地を訪れた。公園の山の中腹に「明治天皇御休巖」碑と「明治天皇御賜名 徯后阪」碑が並んでいる。 現地の言い伝えによると、この地で休憩中の天皇に一首の和歌が渡された、それは夏の長旅を行く天皇を気づかう皇后の御歌であった、皇后からの手紙が先に到着して天皇を待っていたのである、天皇はこの地を「徯后阪(きみまちざか)」と命名した、というエピソードがあったと言われる。国土交通省の発表資料も「風光明媚とうたわれている『きみまち坂』の名は、明治十四年の明治天皇東北巡行の折、皇后から届いた和歌をこの地で読まれたことに由来する」と断言している。現地に立つ「昭憲皇太后御歌」碑に「大宮の うちにありても あつき日を いかなる山か 君はこゆらむ」の御歌が刻まれている。皇后からの手紙は巡幸中の天皇へ寄せた恋文そのものであったということで「恋文ポスト」「恋文神社」「きみまちの鐘」などがつくられている。公園一帯が全国有数のパワースポットなのだという。 言い伝えと史実とは異なる。明治天皇紀によると、明治14年(1881年)9月12日、明治天皇はこの地に巡幸し、交通の難所の加護山を越えた。御輿が通った道は加護山を開削して前年9月に完成したばかりの新道だった。巡幸の数日後、秋田県令石田英吉はこの新道に名称を賜りたいと請願した。天皇はこの新道を「徯后坂(きみまちざか)」と命名し、同月21日、宮内大輔杉孫七郎を通じて口達した。徯后の語はおそらく書経太甲に「徯我后后来無罰」とあるのを典拠とすると明治天皇紀は推定している。これは「わが后を待て。后が来たら罰(禍)がなくなる」という意味であり、ここで「后」とは王のことである(皇后のことではない)。具体的には殷王朝初代の湯王を指す。 公園の現地案内板によると「徯后阪」の「后」とは「天子様」(明治天皇本人)のことである。この地に坂道を切り開いた地元民は「我が后を徯つ(わがきみをまつ)」、すなわち「ここに天子様の行幸があれば大変ありがたいのだがなあ」と思った。明治天皇は巡幸中この坂で休んだ。日頃の念願がかなった地元民は喜び、大勢で丁重に天皇を迎えた。天皇は見事な景観と篤実な民情を誉め、この坂道を「徯后阪」と命名した。のち、この地に公園をつくることになり大正11年(1922年)春に起工し、翌年秋に竣工した。頂戴した有り難い名称にちなんで「徯后阪公園」と名づけた。以上のように解説されている。 きみまち阪の歌碑に刻まれた「大宮の うちにありても ~」の御歌は、当地への行幸の3年前、天皇が北陸を巡幸していたころに皇后が詠んだものである(きみまち阪とは関係ない)。皇后の公刊御集にはこの御歌と同じころに詠まれた「はつかりを まつとはなしに この秋は 越路(こしぢ)のそらの ながめられつつ」という御歌が載っている。この御歌は北陸巡幸中の天皇のもとへ届けられたことで知られる。 1878年9月26日午後5時半ごろ天皇が新潟県糸魚川の池原邸へ到着する、その前に皇后の御歌は届いていた。この時期、雁の群れが越冬に備えて北の大陸から日本に飛んで来ていた。東京で雁の飛ぶ姿を見た皇后は、天皇の巡幸する越後路の方角の空が気になった。旅先の天皇を想う皇后の優しい心遣いが偲ばれる、という有名なエピソードである。聖徳記念絵画館壁画「初雁の御歌」は、皇后が巡幸中の天皇を偲びつつ皇居の庭を散策する姿を描いている。初雁の御歌が届いた糸魚川行在所は、近くの水前神社に移築され、今も保存されているとも、改築されたので残っていないともいう。
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