三条制札事件
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三条制札事件(さんじょうせいさつじけん)は、江戸時代幕末の1866年10月20日(慶応2年9月12日)に発生した、京の治安維持を担当する新選組と、土佐藩士集団の間に起きた衝突事件。
三条大橋西詰北の江戸幕府の制札を引き抜こうとした土佐藩士の一団が、警戒にあたっていた新選組と乱闘となり、土佐側の一名が斬殺、一名が捕縛された。
制札
元治元年7月19日に起きた禁門の変ののち、三条大橋西詰の高札場に長州藩を朝敵とする内容の制札が掲げられた。
一 此度長州人恐多くも自ら兵端を開き犯二禁闕不容易騒動相成候間立去候者共安堵帰住可致候
将又妄に焼払候様浮説を唱候者も有之哉に候得共右様之儀には決して無之候間銘々職業を励み立騒ぎ申間敷事
一 元来長州人名を勤王に托し種々手段を設け人身を迷し候故信用致候者も有之候得共禁闕に発砲し逆罪明にて追討被仰付候
若信用致候者も前非を悔改心候者は御免可被成候間可申出候
且潜伏落人など見当り候者早速に申出候はば御褒美可被下候 若隠他より顕はれ候はば朝敵同罪たるべき事一、このたび長州人みずから戦闘をはじめ、おそれ多くも御所をさわがしたが、この容易ならぬ騒動のため避難した者たちは、安心して帰住するべし。また焼き払いがあるなど、デマを流すものもあるようだが、そのようなことは決してないのであるから、めいめい仕事にはげみ、騒ぎたててはならない。
一、そもそも長州人は勤王を名分にしていろいろ手段をもうけ、人を迷わせたために信用した者もあるようだが、御所に発砲するなど反逆の罪は明らかであるから、追討の命が出されている。もしこれを真にうけた者たちも、後悔し改心した者たちにはお許しがくだされるから、申し出るがよい。潜伏した者、逃亡者などを知っていれば、すぐ申し出れば褒美がある。もし隠していてよそから現れたなら、朝敵の同罪となる。
事件の背景
1866年(慶応2年)に実施された第二次長州征伐の失敗以降、江戸幕府の権威は失墜した。またどんどん焼けで焼け出された京の市民たちには、長州藩へ同情する世論が根強かった。
1866年(慶応2年)になると京都では幕府の立てた制札が引き抜かれるという事件が頻発した。特に、鴨川にかかる三条大橋の西詰北に立てられた制札が3度に渡って引き抜かれ鴨川に捨てられたことから新選組に制札の警備の命がくだり、新選組は三条大橋の高札場を中心とした3拠点に隊士を配置し、包囲体制を整えた。
当日の経過
事件当日、1866年10月20日(旧暦:慶応2年9月12日)は、三条会所に原田左之助ら12人が、酒屋に新井忠雄ら12名、そして橋むこうの町屋に大石鍬次郎ら10人が配置された上、さらに斥候として、乞食に変装した浅野薫、橋本皆助の2人が橋のたもとに配置され、犯人の出現を待ち構えていた。
同日の深夜になって三条大橋西詰に複数の不審な者が現れ、制札を引き抜く動きを見せた。通報を受け、原田隊が現場に急行。犯人側も逃走を開始しながら抜刀し、双方の斬りあいとなる。そこに遅れて駆けつけた新井隊が追い討ちをかける形となり、新選組は相手の一人を斬りたおし、一人を取りおさえるなど有利に戦いを進めた。ところが橋の向こうに配置された大石隊を呼びに行く役の浅野薫が、橋上の乱戦の中をくぐり抜けるのを怖れて回り道をしたため通報が遅れ、当初予定していた挟みうちの体制が完成せず、犯人側に退路をあけてしまった。結局、新選組は8人の犯人のうち6人を取り逃してしまう。
事件の結果
捕縛した者の調べで、犯人側は土佐藩の藤崎吉五郎、宮川助五郎、安藤鎌次、松島和助、沢田甚兵衛、岡山禎六、早川安太郎、中山謙太郎の8名であることが判明した。現場で討ちとられたのは藤崎吉五郎、傷を負って捕縛されたのは宮川助五郎である。また安藤鎌次は土佐藩側の殿を勤める形で奮闘したため多くの傷を負い、現場からの脱出には成功するが翌日になって死亡した。
一昨年の明保野亭事件もあり、新撰組にとって土佐藩は事を構えたくない相手であった。また土佐藩も幕府側との紛議を望まず、事件は27日に土佐側と会津側の手打ちの酒宴が行われて収拾が図られた。参戦した新選組隊士達には、原田左之助の20両を筆頭に、会津藩から恩賞が与えられた。浅野薫は、その臆病な振るまいを咎められ、新選組を追放された。
また当時、土佐藩士の間では長い刀を差すことが流行になっていたが、この事件をきっかけに、長い刀は使いにくいとの認識が広まって流行が終焉したという。
三条制札事件
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慶応2年1月26日の夜、長州藩を朝敵とした三条制札場の高札が取り外され、石垣が崩されるという事件が発生した。さらに、将軍・徳川家茂死去の8日後の8月28日、またも高札が外され、三条小橋の下に捨てられた。そしてさらに9月1日にも高札が放棄され、翌日には新たな高札が掲げられたが3日には制札場の石垣が崩され、4日には石垣が崩された上高札が盗まれるという事件が発生した。この時は目撃者がおり、帯刀人五、六人の仕業だったようである。さらに5日にも同様の事件があり、今度は4人の犯人が目撃されている。町奉行所は懸命の捜索を行い、ついに犯人が土佐藩士であるという風聞にたどり着いた。町奉行所は武士に手を出すことができないため、これが会津藩に通報された。そこで会津藩は新選組に制札場の警備を命じ、左之助はここで大活躍をおさめることになる。 左之助は12日夜、27人の隊士達とともに制札場に出動した。大石鍬次郎、茨木司らを三条大橋の東詰の民家に、新井忠雄、中西登、伊藤浪之助らを西詰の高瀬川近くの酒屋に配し、自身は西詰南側にある先斗町の町会所に待機し、浅野薫と橋本皆助を物乞いに変装させ制札場近くに置いた。 午前0時頃、川原を北上してきた武士が現れた。土佐藩士の藤崎吉五郎、松島和助、宮川助五郎、沢田屯兵衛、安藤鎌治、奥山禎六、早川安太郎、中山謙太郎の八人である。彼らは制札所に歩み寄って、柵に登ろうと足をかけた。そのとき橋本皆助は静かにその場を離れ酒屋の新井忠雄らのもとに合図を送り、次いで左之助の待つ三条会所に向かった。しかし既に気配を察知していた左之助たちは彼らの様子をうかがっており、2枚の高札が投棄されたのを合図に抜刀して突き進んだ。左之助は彼らの首領を藤崎吉五郎と判断し、伊木八郎とともに左右から攻め立て、軽傷を負いながらも藤崎を切り倒したが絶命には至らなかった。 闘いを終えた左之助たちが、捕縛した宮川助五郎たちを連れて屯所に戻ったのは13日の夜が明けた頃だった。左之助はこの事件の報奨金で金20両を与えられている。 この報奨金が記されている報奨金分配リストには、左之助は七番組頭となっている。左之助は前年の取調日記によると殿である九番隊組頭だったので、その間に組織の再編が行われたことが分かる。 禁門の変後、新選組は長州征伐を念頭に置いて副長助勤制度から小隊長制に切り替えており、その後長州征伐の可能性がなくなってからも小隊長制を維持し事態の推移を見守っていた。しかし慶応2年の6月に長州再征伐が発生した、幕府の敗北が色濃くなる中7月20日には将軍徳川家茂が病死。幕府は実質的な敗北を認めざるを得ず、21日には休戦の勅許を得ていた。つまり新選組はこの時点で長州征伐に必要だった小荷駄方、殿というポジションは必要なくなった。そこで組織の再編が行われ、左之助は七番組長として三条制札事件を迎えたのであった。 ちなみに、制札場事件の翌日には土佐藩は新選組との和解のために祇園の料亭に近藤らを招いていたが、そこに左之助がいたという記録はない。
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