きえん‐れい【棄×捐令】
棄捐令
棄捐令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 02:19 UTC 版)
旗本・御家人などの救済のため、札差に対して元本が回収済みであろう6年以上前の債権破棄、および5年以内になされた借金の利子引き下げを命じた。九月の発布後、年越しを前に貸し渋りが生じたが、幕府と札差との間の交渉により年末には年を越せないと危惧された貸し渋りは三ヵ月で収まった。
※この「棄捐令」の解説は、「寛政の改革」の解説の一部です。
「棄捐令」を含む「寛政の改革」の記事については、「寛政の改革」の概要を参照ください。
棄捐令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:48 UTC 版)
棄捐令とは、生活に困窮する旗本・御家人を救おうと、寛政元 (1789) 年に、札差 から借りた借金の一部帳消し又は低利での年賦償還を命じた法令。それは以下の通りの内容である。 天明4年以前の(6年以上前の)札差からの借金は、理由のいかんを問わず棄捐する。 天明5年4月から寛政元年までの借金を、元金、利子ともに年利6%に下げ、年賦返済とする。 寛政元年以後の利子は、年利12%に引き下げる。 大多数を占める零細の札差のため、新規融資をしない金主への対策として、幕府出資で貸付会所を新設する。 札差が金主から借りていた金について、札差の踏倒しを認め、金主が奉行所に訴えても5年以前のものは受理しない。 旗本・御家人への貸付けは今迄通りに実行すること。 棄捐令発布前に札差の経営状態を調査してみると札差97件のうち完全に自己資金で経営しているものは7件に過ぎず、全体の七割強が他所から資金を調達して経営していたことがわかった。このまま借金の棒引きをすると、札差が多額の金銭的損害を被り経営困難に陥り、恨みを買って旗本への再融資を拒否してしまう。それでは却って融資の道を絶たれた旗本・御家人達が更なる貧窮に陥る事態の繰り返しになってしまうことを松平定信ら幕府方が危惧した。 そこで勘定奉行久世広民は、棄捐令発布後の札差を助けるため、公金を貸し付ける案や札差への資金貸付機関となる猿屋町会所の設立を定信に提案した。それは江戸・京都・大坂の有力豪商らから資金を募って経営状態の良い有力な札差に会所を運営させて経営困難となった札差に年利一割の低利で貸し付けるというものであった。久世はこの案を、札差は他から資金を借りずに営業を存続でき、長年富豪の元に溜め込まれた金が世に流通することにより経済が活性化するだろうと評している。会所にて経済的に困難に陥った札差への経営資金を融資を行った結果、札差株の価格は大いに下落したものの、廃業者が続出するようなことはなかった。 最終的に棄捐令の実施時期は9月の冬服の取替が終わった後となった。この時期なら札差からの資金の出資が滞っても困らないだろうという配慮だった。また、完全棒引きの対象は6年以前の借金のみと決められた。その理由は、当時表面年利は18%だったのだが、札差は色々名目を設け、各種様々な手数料や利息を二重取りするなどと実質の金利は18%を大幅に上回る不正利殖をしていたので、6年以降の借金であるならば元本を上回る金額を既に回収し終わっているのだから、棄捐しても元金の丸損にはならず札差も不満はないだろうという考えによるものだった。 棄捐令から七日後の9月23日、札差28名による嘆願書が提出された。嘆願書には、自分達は零細の営業であり今まで他所から資金を借りて営業してきたが今回の棄損に利安とあっては営業が立ちがたく、もう金は貸せないというのだ。幕府は即対応し、翌日、札差の代表に2万両を下賜し、うち1万両は10年間返さなくてよく、残り1万両は会所での貸出資金とせよと命じた。これを受けて札差も嘆願書を引っ込めている。だが結局、札差の貸し渋りが始まった。定信は久世に宛てて「今までは暮れに20両ほど借り返せていたのに、今年はやっと4,5両、同心などはわずか1両というありさまで、これでは貧乏なものは年が越せず、御仁恵が無駄になってしまう。札差の自己資金が足りなければ会所から借りさせよ。」と送り、年内に解決するよう急かしている。奉行と札差との間で交渉が続いた。最終的には棄捐令発布当初、年利12%のうちの2%だった札差の取り分を6%と上乗せすることで札差は矛を収めた。これは公儀からの金をそのまま武家に仲介するだけで利息の半分を得ることができ、札差としても利が多かった。年越し前の12月26日という瀬戸際の妥結によって当初の予定から三ヵ月遅れたが、会所の資金が札差経由で武家に渡るようになり、年越しができないと危惧された大規模な貸し渋りの事態は回避された。その後も札差への経済支援は続き、翌年7月には武家に貸した額の4割を会所から低利で貸し出す措置が決まった。 通説では棄捐令の借金棒引きは、困窮した武家を救済するための苦し紛れの方策と位置付けられてきた。しかし、歴史学者の山室恭子は幕府も武家も商人にも利を与える成功した政策だったと述べている。山室は、天保の無利子年賦返済令の際の当時の勘定奉行の発言に「延享3年から寛政9年までは52ヵ年、寛政9年から今年までは47ヵ年になります。およそ50年に一度、借金を破棄する措置を実施しないと、かえって世上の金銀が流通しない原因となってしまうと存じます」という記録があることを指摘。 江戸時代には今の銀行が行っている預かった預金を他者に融資し市場に還流されるような仕組みが無いため、商人などの富裕層が退蔵が進むと貨幣の流通量が減った結果、景気が落ち込むという現象が発生する。そのため、幕府は意図して周期的に富裕層の商業資本金を吐き出させて貨幣が停滞しないようにする必要性があった。棄捐令や貨幣改鋳などの政策は一時しのぎの場当たりな政策ではなく一定間隔で行われる商人への一括の課税であり、いうなれば富豪に対する貯蓄課税だったといえる。これらは同時に豪商に退蔵される貨幣を吐き出させ貨幣供給量を増やすことで経済の停滞を防ぎ経済活性化を目的とする富の再分配の施策であったと主張している。
※この「棄捐令」の解説は、「松平定信」の解説の一部です。
「棄捐令」を含む「松平定信」の記事については、「松平定信」の概要を参照ください。
棄捐令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 09:19 UTC 版)
寛政の改革の一環として出された棄捐令は、札差・御家人達の札差からの借金を、発布された1789年より6年以前(1784年)までの分は帳消し、5年以内(1785 - 1789年)の分は利子をこれまでの年利18パーセントから3分の1の年利6パーセントに下げ、永年賦とするという法令である。 また、資金不足に陥った札差達のために、資金を貸し下げる猿屋町御貸付金会所(札差御改正会所)の設立についても、この時に決められた。 これにより、当時の96軒の札差達は平均して1万両以上の債権放棄を強いられることとなり、中には経営が出来なくなり閉店同様になる店もあった。 当初、借金を棒引きにしてもらった武士達は、老中松平定信に感謝していたが、札差側からの一斉締め貸し(金融拒否)により生活が困窮し、逆に幕府の政策を恨むようになった。
※この「棄捐令」の解説は、「札差」の解説の一部です。
「棄捐令」を含む「札差」の記事については、「札差」の概要を参照ください。
「棄捐令」の例文・使い方・用例・文例
棄捐令と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 棄捐令のページへのリンク