発生への経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 05:23 UTC 版)
「慶安御触書」の呼称が用いられ広く知られるようになったきっかけは美濃国岩村藩で出版された文政13年(1830年)の木版本である。肥前国平戸藩主の松浦静山『甲子夜話』によれば、静山は幕府学問所総裁の林述斎から岩村藩に慶安年間発令の幕法が存在していると聞かされており、述斎は藩政改革が実施されていた岩村藩において「慶安御触書」を流布させていたという。述斎は「慶安御触書」を『徳川実紀』にも収録させており、これを契機に社会構造が動揺し飢饉や一揆などが多発した天保年間には「慶安御触書」は慶安年間の幕法として諸国に広まったと考えられている。 しかし、『甲子夜話』にある岩村藩に触書が伝来している旨の林述斎の話は、史料の残存状況から疑問視されている。慶安2年当時の原本が見つからない事や、甲斐国や信濃国など一部の地域でしかこれを記した文書が見つからないことなどから偽書・偽文書とみなす説や、幕府や諸藩が出した農民統制の法令を慶安年間に仮託して集成したものとする説も現れた。その一説として、100年以上も後の宝暦 - 天明期(1751-1789年)の農民教諭書が修正・補筆されて「慶安御触書」として流布されたというものもある。近年では、「慶安御触書」を記載しないか、「慶安御触書」という表現をぼかす歴史教科書も多くなっている。 そこで「慶安御触書」について記された岩村藩の文政13年(1830年)の木版本のルーツが議論になっている。 天明2年(1782年)に甲斐国巨摩郡亀沢村で幕府代官がまとめた「百姓身持書」であるとする説 元禄10年(1697年)に山梨県甲西町の内藤家に伝来した甲府徳川家が制定したとみられる「百姓身持之覚書」であるとする説内藤家の「百姓身持之覚書」は長野県望月町の土屋家に伝わる寛文5年(1665年)の無表題冊子の規範をもとに制定されたといわれており、この土屋家本をもとにした農民教諭書が各地に残されている(ただし土屋家本は所在不明となっている)。
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