若桜藩とは? わかりやすく解説

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若桜藩

読み方:ワカサハン(wakasahan)

鳥取藩支藩

別名 西館新田藩


若桜藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 05:40 UTC 版)

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若桜藩(わかさはん)は、因幡国八東郡(現在の鳥取県八頭郡若桜町)周辺を領した

藩史

豊臣政権時代は木下重堅若桜城主であったが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に属し、敗戦とともに自害した。

慶長6年(1601年)、摂津国三田藩より山崎家盛が3万石で入封して立藩した。2代・家治元和3年(1617年備中国成羽藩に転封となった。以後鳥取藩領となる。

元禄13年(1700年)に鳥取藩の支藩として同じ地に鳥取西館新田藩が立藩した。以後は鳥取藩の項目を参照。

明治元年(1868年)、第10代藩主の池田徳定は若桜陣屋を置いたため、鳥取西館新田藩は若桜藩と呼ばれるようになった。

明治3年(1870年)、若桜藩は鳥取藩に合併されて廃藩となった。

歴代藩主

山崎家

3万石、外様(1601年 - 1617年)

  1. 家盛
  2. 家治
池田家

2万石、外様(1868年 - 1870年)

  1. 徳定

若桜藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 08:42 UTC 版)

鳥取藩」の記事における「若桜藩」の解説

「若桜藩」も参照 若桜藩(わかさはん)は鳥取西館新田藩ともいい、鳥取藩2代藩主綱清が元禄13年1700年5月25日に弟の池田清定池田光仲の四男)に新田1万5000石を分知したのが始まりで、藩庁鹿奴藩同じく鳥取置かれた。なお、江戸屋敷鉄砲洲にあったことから、鉄砲洲家ともいわれる2代藩主定賢は享保5年1720年)、5000石の加増受けて2万石の大名となり、さらに幕府から松平姓許され間詰となった。ただし、鹿野藩同じく鳥取藩から蔵米支給受けていたため、実際に領地はなかった。そのため鳥取藩からの独立性薄く若桜には鳥取藩から派遣され御付人による政務が行なわれていた。 歴代藩主の中では5代藩主定常松平冠山)が藩政改革行い、また文学者としても有名で「間の三学者」「文学三侯」と称された。 明治元年1868年12月10日10代藩主徳定のとき、若桜現在の八頭郡若桜町)に若桜陣屋置いたため、若桜藩と呼ばれるようになった明治3年1870年)、鳥取藩帰属した。藩主家明治17年1884年)、子爵となった

※この「若桜藩」の解説は、「鳥取藩」の解説の一部です。
「若桜藩」を含む「鳥取藩」の記事については、「鳥取藩」の概要を参照ください。

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