吉見藩とは? わかりやすく解説

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吉見藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/02/24 03:14 UTC 版)

吉見藩(よしみはん)は、明治維新期のごく短期間、和泉国日根郡吉見村(現在の大阪府泉南郡田尻町吉見)に藩庁を置いた[1]版籍奉還後の明治3年(1870年)4月、近江三上藩が当地に藩庁を移して成立したが、翌明治4年(1871年)年7月に廃藩置県が行われたため、1年3か月で消滅した[2]

歴史

大阪
岸和田
吉見
関連地図(大阪府)[注釈 1]

幕末の三上藩

吉見村は天保6年(1835年)に三上藩遠藤家領になった[3][4]。三上藩は定府の大名であって藩士はみな江戸に在住しており[5]、上方では「居所」とされた近江国三上(現在の滋賀県野洲市三上)と和泉国吉見に小規模な陣屋を設けて「吏胥」のみを配置していた[5]

幕末の藩主遠藤胤城は、江戸幕府において奏者番を務めた。戊辰戦争の過程で、胤城は新政府に恭順しなかったため、慶応4年(1868年)1月には三上陣屋を接収され、近江の知行所は水口藩に預けられた(のち大津裁判所が管理する)[6]。同年5月29日、罪を許されて領地を戻された[7]

吉見への移転

版籍奉還により、藩主であった遠藤胤城は知藩事となり、藩は管轄地の行政を担うことになった。しかし近江国三上は山地に囲まれて海路が遠く、士卒の長屋を建設するのが不便であり[注釈 2]、一方で和泉国の管轄地は近江国の管轄地よりわずかながら石高が多く[注釈 3]、海にも近く長屋建設にも便利であるとの理由で[8]明治3年(1870年)4月12日付けで近江国三上から和泉国吉見への治所移転と「吉見藩」への改称、東京藩邸在住の藩士の移住を申し出た[9]

明治3年(1870年)4月14日[2]、三上藩の要望は認められ、藩庁が三上から吉見に移転して、吉見藩が成立した[10][11][8]

吉見県

明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により廃藩となり、吉見県が置かれる[2][12]。同年11月22日に吉見県も廃止されて堺県に編入された[2]

歴代藩知事

遠藤家

譜代格、1万4500石。

  1. 胤城

領地

分布と変遷

慶応4年/明治元年(1868年)、徳川宗家が駿遠両国に移されることとなり、駿河田中藩4万石は安房国に移されて長尾藩となった。これに際して三上藩が安房国の領地はすべて長尾藩に移され、上総国望陀郡内の旧旗本領が替地となった。

吉見県管轄地

幕末以後、和泉郡の1か村が廃藩置県の段階で堺県に移管されている。また、和泉郡で旧幕府領2村、日根郡で旧土浦藩領2村が吉見県管轄下に移された。

旧高旧領取調帳データベース」では、安房国・上総国の「旧県名」欄が廃藩置県前の状況を示しており、「三上藩」ないし「柴山文平・三上藩」と表記されている(柴山文平安房上総知県事)。

旧高旧領取調帳データベースによる吉見県管轄地(旧藩領以外からの編入分)詳細
  • 国立歴史民俗博物館ウェブサイトの「旧高旧領取調帳データベース」より[13]、「旧県名」欄が「吉見県」であるもののうち、「旧領名」が「吉見藩領分」以外のものを抜粋する(ただし、無高の寺社除地は省略)。用字等は修正していない。
  • 「幕末期」欄は、旧高旧領取調帳データベースの「旧領名」欄に記載された領主名で、一般的には「江戸時代の最末期、幕府滅亡時点」の情報である[14]
国郡 石高 現在の地名 幕末期 備考
66003和泉国和泉郡 ふくぜ福瀬村 0314.902008 27219大阪府和泉市福瀬町付近 ←幕府領(代官小堀数馬支配)
66006和泉国和泉郡 きただなか北田中村 0205.307999 27219大阪府和泉市北田中町付近 ←幕府領(代官小堀数馬支配)
66643和泉国日根郡 かいかけ貝掛村 0629.341125 21201大阪府阪南市貝掛付近 ←大名領(土浦藩
66645和泉国日根郡 まい舞村 0044.949600 21201大阪府阪南市舞付近 ←大名領(土浦藩 「土浦県カ」と注記あり
70140近江国野洲郡 みかみ三上村 0033.511002 25343滋賀県野洲市三上付近 ←寺社領(御神神社除地) 幕末時点で相給
70521近江国甲賀郡 しもいそお下磯尾村 0009.122000 25366滋賀県甲賀市甲南町磯尾付近 ←寺社領(医王寺除地) 幕末時点で相給
70522近江国甲賀郡 しもいそお下磯尾村 0000.282000 25366滋賀県甲賀市甲南町磯尾付近 ←寺社領(西蔵寺除地) 幕末時点で相給

地理

境内に藩庁が置かれた春日神社

和泉国(吉見)

和泉国内の管轄地は、北は田尻川、南は現在の春日神社境内、西は旧加太街道に至る土地で[12]、草高は1万2000石[10]春日神社境内に知藩事邸や藩士の住居が設けられたという[12]。大手門は現在の田尻町立小学校の敷地にあった[12]

近江国(三上)

三上陣屋は吉見藩三上出張所となった[15]

文化・人物

吉見藩には「仮学校」が設けられていた[16]。藩では『智嚢補中国語版』(中国の賢人・名士の智謀を採録した、馮夢龍編纂の説話集)の一部を出版しており、「仮学校」で教育に用いられていた可能性がある[16]

旧藩士・水谷竹太郎は江戸藩邸で生まれて漢学を学び、東京で廃藩置県を迎えた人物であるが、廃藩置県後に旧藩地である吉見に赴き、日根郡会議員などを務めた後、田尻村長(初代・第4代)を務めた[3]

脚注

注釈

  1. ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
  2. ^ 「四周山岳ノ地殊更海路ニモ遠ク士卒族長屋取建候ニモ何彼不便利ノ筋多有之候」[5]
  3. ^ 『太政類典』所収「三上藩泉州管轄地ヘ治所建設吉見藩ト改称」の件によれば、大政奉還時点で三上藩の知行地は、近江国に4227石、和泉国に5173石が分布していた[5]。『旧高旧領取調帳』によれば、幕末時点で近江国に4300石、和泉国に5000石。

出典

  1. ^ 吉見藩”. 角川日本地名大辞典. 2024年8月2日閲覧。
  2. ^ a b c d 町史編纂だより220 吉見藩北辰一刀流の剣士」『広報たじり』第618号、田尻町、2018年11月、18頁、2024年8月2日閲覧 
  3. ^ a b 町史編纂だより239 廃藩置県151年-吉見藩の場合-」『広報たじり』第657号、田尻町、2022年2月、21頁、2024年8月2日閲覧 
  4. ^ 吉見村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年8月2日閲覧。
  5. ^ a b c d 「三上藩泉州管轄地ヘ治所建設吉見藩ト改称」, 1/2コマ.
  6. ^ 「大津裁判所水口藩ノ遠藤胤城ノ旧封ヲ管理スルヲ罷ム」, 1/1コマ.
  7. ^ 「遠藤胤城勤王之実蹟アルヲ以テ其封土ヲ復ス」, 1/3コマ.
  8. ^ a b 「三上藩泉州管轄地ヘ治所建設吉見藩ト改称」, 1-2/2コマ.
  9. ^ 「三上藩泉州管轄地ヘ治所建設吉見藩ト改称」, 2/2コマ.
  10. ^ a b 『地方沿革略譜』, p. 24.
  11. ^ 三上藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年8月2日閲覧。
  12. ^ a b c d 『大阪府史蹟名勝天然記念物 第4冊』, p. 327.
  13. ^ 旧高旧領取調帳データベースの検索”. 国立歴史民俗博物館. 2026年2月21日閲覧。
  14. ^ 旧高旧領取調帳データベース データベース概要”. 国立歴史民俗博物館. 2026年2月21日閲覧。
  15. ^ 野洲市にあった三上藩の陣屋について知りたい。”. レファレンス協同データベース. 2024年8月2日閲覧。
  16. ^ a b 町史編纂だより190 吉見藩の刊行物」『広報たじり』第608号、田尻町、2018年1月、26頁、2024年8月2日閲覧 

参考文献

先代
三上藩
行政区の変遷
1870年 - 1871年 (吉見藩→吉見県)
次代
堺県



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