朝倉在重_(石見守)とは? わかりやすく解説

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朝倉在重 (石見守)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 07:43 UTC 版)

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朝倉在重
時代 江戸時代前期
生誕 天正11年(1583年
死没 慶安3年11月19日1651年1月10日
別名 仁左衛門(通称)、石見守
戒名 要玄院的翁松瑞
墓所 四谷の全勝寺
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川秀忠家光
氏族 朝倉氏
父母 朝倉在重
兄弟 宣正在重、景年
重成牧野儀成室、兼松正尾室、
塚原十左衛門室、重興、重利、
松平忠行室、大生市左衛門室、
岡田庄九郎室、藤波伊兵衛室
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朝倉 在重(あさくら ありしげ)は、江戸時代前期の旗本通称は仁左衛門。名乗り石見守朝倉 石見守(あさくら いわみのかみ)として知られる。

来歴

父は同名の朝倉河内守在重。兄は徳川忠長御附家老だった朝倉宣正。この宣正の子であるとする説もある。

はじめ徳川秀忠に仕えて書院番士となる。のち膳番に転じ、大坂夏の陣では親族の牧野忠成に従い出陣、寛永2年(1625年)7月、500石に加増されて目付に昇進した。寛永7年(1630年)には使番で1000石と順調に昇進を重ね、寛永9年(1632年)に加藤忠広改易された際には八代城受け渡しの大役を任され、新たに熊本藩主となった細川忠利の家臣・有吉立道にこれを無事引き渡している。

寛永10年(1633年)には2000石に加増され、寛永16年(1639年)に江戸北町奉行に任じられた。寛永18年(1641年)には、本来は3000石以上の大身旗本にのみ許される守名乗りを特に許されて石見守を称す。寛永19年(1642年)には幕閣の一員として、駿河田中藩松平忠晴に対し飢饉対策を講じるよう命じた沙汰書に老中松平信綱らと連署している。

慶安3年(1650年)11月19日、在職のまま死去、享年68。墓所は四谷の全勝寺。法名は要玄院的翁松瑞。家督は嫡男の重成が継いだ。

系譜

  • 父:朝倉在重(1545年 - 1615年) - 河内守
  • 母:末高正長[1]の娘
  • 室:越後長岡藩牧野家家臣 牧野五郎兵衛の娘
    • 嫡男:朝倉重成(1615年 - 1676年)
    • 女子:旗本牧野儀成
    • 女子:兼松正尾室 - 正尾は兼松正吉の孫
    • 女子:塚原十左衛門室
    • 次男:朝倉重興 (? - 1677年)- 重朝。旗本廩米2百俵。のち2百石および1百俵。室は旗本井出正陳の娘
    • 三男:朝倉重利(1634年 - 1659年) - 旗本3百俵。8歳で将軍世子であった徳川家綱の御小姓となった。
    • 女子:松平忠行室
    • 女子:大生市左衛門(土井利房家臣)室
    • 女子:岡田庄九郎室
    • 女子:藤波伊兵衛室

脚注

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  1. ^ 安倍七騎で朝倉氏と共に名の挙がる末高氏。正長は元は今川氏真の家臣。のち武田信玄ついで勝頼に仕え、のち徳川家康の配下になった。旗本。

参考文献




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