マーツ夫妻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:25 UTC 版)
「アイ・ラブ・ルーシー」の記事における「マーツ夫妻」の解説
『My Favorite Husband 』から、『アイ・ラブ・ルーシー』の脚本家達はリカード夫妻には年上の夫婦役が必要だと考えた。『My Favorite Husband 』放送期間中、ベテラン性格俳優のゲイル・ゴードンがジョージ・クーパーの年上で経済的に安定したボスであるルドルフ・アターバリー、ビー・ベネドレットがその妻アイリスを演じた。当初ボールは2人にテレビ・ドラマ版にも続投を希望していたが、ゴードンはCBSとラジオおよびテレビの『Our Miss Brooks 』と交渉中、ベネドレットは『Burns and Allen 』に出演中であったため実現しなかった。 「マーツ」という名はマデリン・ピューがインディアナポリスでの幼少時に会った医師の姓から名付けられた。 マーツ夫妻の配役にはチャレンジが必要であった。当初ボールはコロンビア映画『Miss Grant Takes Richmond 』で共演した性格俳優のジェイムス・グリーソンをフレッド・マーツ役に希望していたが、グリーソンは1エピソードにつき約3,500ドルを要望したため困難であった。円熟したヴォードヴィリアンで映画にも100作品近く出演していた性格俳優である64歳のウィリアム・フロウリーは直接ボールに電話をし、ボールの新しい番組に自身に当てはまる役はあるか尋ねた。ボールはフロウリーに関してRKO時代に少し知っていた程度であったが、アーナズとCBSに提案してみた。CBSはハリウッドで知れ渡っていた彼の深酒により、生放送に出演するのは困難ではないかと難色を示した。しかしアーナズはフロウリーを推し、ボールが出演料の件やゲイル・ゴードンが演じたルドルフ・アターバリーに比べて意地の悪さがフロウリーに適役であると考えているとしてフレッド役に配役されるよう掛け合った。アーナズがフロウリーに撮影期間は全く酒を飲まないことを約束させ、フロウリーがベテラン俳優であるにも関わらず、1度でも酔った状態で撮影に来た場合即刻解雇と語ったことからCBSの態度は軟化した。9シーズン続いた『アイ・ラブ・ルーシー』でフロウリーは1度も酔った状態で登場することなく、以降アーナズの数少ない親友の1人となった。 エセル・マーツの配役もまた難航した。最初の候補者はボールの親友のバーバラ・ペッパーであった。2人は1933年、ゴールドウィン・ガールズに所属しハリウッドに来た時からの長い付き合いであった。ペッパーはボールと親しかったが、CBSはフローリーよりもさらに深刻な飲酒問題を抱えているとして却下した。しかし『アイ・ラブ・ルーシー』には数回端役で出演することとなった。『アイ・ラブ・ルーシー』のディレクターであるマーク・ダニエルズはヴィヴィアン・ヴァンスを推薦した。1940年代初頭、ダニエルズはニューヨークのブロードウェイでヴァンスと仕事をしたことがあったのである。ヴァンスはブロードウェイで20年以上様々な役を演じて既に成功しており、1940年代後期にはハリウッドで映画2作品にも出演していた。にもかかわらず、1951年まではハリウッドではまだ無名であった。ヴァンスはカリフォルニア州ラホヤで『The Voice of the Turtle 』の再演に出演していた。アーナズとオプンハイマーはこの公演を観に行き、即採用した。ヴァンスはテレビのために映画や舞台を諦めなくてはならないことに難色を示し、ダニエルズとの契約にはまだ至らなかった。ボールは年配の家庭的な役柄であるエセル役にはヴァンスは若く魅力的すぎるとして不安であった。またボールは当時のハリウッドの常識として、ヒロインは1作品1人であるべきであると信じており、ボールは自身が『アイ・ラブ・ルーシー』のただ1人のヒロインであると考えていた。しかしアーナズはヴァンスの演技に感銘を受け、彼女を雇った。この決断により、ヴァンスの衣裳は時代遅れのドレスで彼女の魅力を故意に下げた。ボールとヴァンスの関係は撮影開始直後は微妙であった。最終的にヴァンスの無害な性格、演技に対するプロフェッショナルな態度から、ボールは彼女と仲良くなっていった。1954年、ヴァンスはエミー賞助演女優賞を獲得した最初の女優となった。ボールとヴァンスは生涯においての親友となった。『アイ・ラブ・ルーシー』終了後、ボールはヴァンスに新しいドラマ『ザ・ルーシー・ショー』のW主演を頼んだ。 舞台裏ではフロウリーとヴァンスの仲はあまりよくなかった。しかし彼らは常にプロフェッショナルであり、作品中では抜群の相性を見せた。しかし実生活であまり仲のよくない2人が見せる作品中の結婚生活はより面白いものとなった。フロウリーはヴァンスが登場すると「a sack of doorknobs 」と嘲った。伝えられるところによると、フローリーより22歳若いヴァンスは、父親ほどの年齢の男性と結婚するエセルの役柄は好きではなかった。またヴァンスはフロウリーの歌とダンスのスキルについて文句を言ったことがある。フロウリーとヴァンスは番組期間中ずっと敵対関係にあった。 1957年、『アイ・ラブ・ルーシー』は『Westinghouse Desilu Playhouse 』の一部である1時間の『ルーシー・デジ・コメディ・アワー』に生まれ変わった。他の『Westinghouse Desilu Playhouse 』の番組と1ヶ月交替であった。この新番組では著名なゲスト・スターを話の本筋に関わらせ、マーツ夫妻も続投したが出番は少なくなった。仕事量が減ってフロウリーは喜んだが、ヴァンスはいささか不満であった。ヴァンスを大いに尊敬していたアーナズは、『アイ・ラブ・ルーシー』のスピンオフ『The Mertzes 』を持ちかけた。有益で自身の番組が持てるとしてフロウリーは乗り気であったが、ヴァンスはいくつかの理由があったが最も大きな理由はこれ以上フロウリーと共演することが困難でるとしてこれを断った。またヴァンスはリカード夫妻なくしてマーツ夫妻の話だけでは成功しないと考えていた上、エセル役より魅力的な役柄に興味を持っていた。事実『ルーシー・デジ・コメディ・アワー』第13話では『アイ・ラブ・ルーシー』では見せなかったような魅力的な役柄を演じている。フロウリーのヴァンスへの恨みはヴァンスがスピンオフを辞退して以降増大し、台詞以外めったに会話をしなくなってしまった。 数年後、ヴァンスは『ザ・ルーシー・ショー』に、フロウリーは『My Three Sons 』に出演し、両者は近くのスタジオで撮影していたため、フロウリーは子役にヴァンスのリハーサルでいたずらをするよう仕掛けることがあった。
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