『アイ・ラブ・ルーシー』およびデシル・プロダクション
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「ルシル・ボール」の記事における「『アイ・ラブ・ルーシー』およびデシル・プロダクション」の解説
詳細は「アイ・ラブ・ルーシー」および「デシル・プロダクション」を参照 1948年、CBSラジオの『My Favorite Husband 』で奇抜な妻であるリズ・クガート(後にクーパーに改名)を演じた。この番組は成功し、CBSはボールにテレビ・ドラマ化を持ちかけた。彼女は承諾したが、夫役をアーナズにするよう主張した。CBSの重役は、視聴者は赤毛のアメリカ人とキューバ人の夫婦を受け入れないのではないかと危惧した。ボールとアーナズによるデシル・プロダクション製作のパイロット版は、CBSは当初良い印象を持たなかった。アーナズを番組に出演させるため、ひょうきん妻のルーシーを演じるヴォードヴィルで2人はツアー公演をしてまわった。このツアー公演は好評で、CBSはこの夫婦を『アイ・ラブ・ルーシー』に出演させることにした。『アイ・ラブ・ルーシー』はルシル・ボールのためのスター番組というだけでなく、互いの仕事が忙しくすれ違い気味であった夫婦関係の修復のためでもあった。 ボールはテレビ業界の管理職ともなり、いくつかの第一人者ともなっている。ボールとアーナズが創立したデシル・プロダクションにより、彼女はプロダクション会社の社長となった最初のテレビ女優となった。離婚後、ボールはアーナズの取り分を買い取り、スタジオの社長として業務を拡大した。デシルおよび『アイ・ラブ・ルーシー』は、観客のいるスタジオで多数のカメラで収録したり、セット同士を繋げたり、現在も番組制作で使用されるメソッドのパイオニアであった。この頃ボールはBrandeis-Bardin Institute で32週、コメディ・ワークショップで教えてもいた。ボールは「コメディを教えることはできない。その素質があるかないかである」と引用した。 プレミア放送時、ほとんどの番組が東部標準時および中部標準時の地域の視聴者に向けてニューヨークから生放送し、キネコにより後で西部にも放送された。キネコはフィルムより劣るため、西部では画質的に劣った放送を観なくてはならなかった。ボールとアーナズはロサンゼルスに住み続けたかったが、標準時の都合上不可能であった。ロサンゼルスのゴールデンタイムに放送するには東部では遅すぎるため、多くの視聴者が劣化画像を観るだけでなく、放送まで少なくとも1日待たなくてはならなかった。 スポンサーのフィリップモリスは大型市場である東海岸ではキネコでの日遅れ放送を行ないたくなく、撮影、製作、編集に余計な費用を払いたくないため、ボールとアーナズはニューヨークに転居した。ボールとアーナズはデシルの経営状況を考慮して撮影費用を削るよう要請し、1度放送された番組の権利を所有し続けたかった。初回放送後、CBSは番組の権利を貴重で持続性の高い資産であると気付かず断念し、デシルに返した。番組販売を通して再放送を重ね、デシルは『アイ・ラブ・ルーシー』で数百万ドルを上げ、番組販売による再放送で利益を上げる前例となった。テレビ創成期、再放送に関する制度が確立されておらず、業界関係者の多くは視聴者が再放送を望むことに懐疑的であった。この時代の人気番組は不完全なキネコ装置により、次世代の視聴者が見るには劣化が酷かったが、『アイ・ラブ・ルーシー』は半世紀以上世界中の数億人に視聴されている。ボールとアーナズの賭けはその後数10年、ニューヨークからハリウッドまでテレビ製作の手本となった。 デシルは撮影監督として著名なドイツ人カメラマンのカール・フロイントを雇った。フロイントはF・W・ムルナウおよびフリッツ・ラングのもとで『メトロポリス』(1927年)の一部、ベラ・ルゴシ主演の『魔人ドラキュラ』(1931年)の撮影に携わったことがあり、自身もボリス・カーロフ主演の『ミイラ再生』(1932年)など多数のハリウッド映画を監督した。フロイントは3台のカメラを使用し、これがシチュエーション・コメディのスタンダードとなった。観客の前でコメディを長距離撮影、中距離撮影、近距離撮影するには様々な技術が要求される。変わった撮影方法としては、白から灰色までの缶塗料を用いて陰影をつけた。フロイントは全てに強い光を当てて影を消し、照明を当て続ける平面光撮影の第一人者であった。 『アイ・ラブ・ルーシー』はその放送期間中、全米の週間視聴率で上位につけていた。(ラジオ・ドラマ化が検討され、リカード夫妻とマーツ夫妻が仲違いをしてアパートを出て行こうとする『Breaking the Lease 』のエピソードが製作されたが、放送されず現存している)『Lucy Does The Tango 』のエピソードでルーシーとリッキーがタンゴの練習をするシーンは番組史上最も観客が笑っている時間が長かった。長過ぎたために音響スタッフはサウンドトラックを半分カットしなくてはならないほどであった。綿密なリハーサルとデシルの業務により、番組の成功と共にアーナズは多忙となった。番組継続中にも2人はヴィンセント・ミネリ監督の『The Long, Long Trailer 』(1954年)、アレクサンダー・ホール監督の『Forever, Darling 』(1956年)などの映画で共演した。 デシルは、ボールが『ステージ・ドア』で共演したイヴ・アーデン主演の『Our Miss Brooks 』、『アンタッチャブル』、『宇宙大作戦』、『スパイ大作戦』など多くの人気番組を制作した。他に『My Three Sons 』(12シーズン中1から7シーズンまで)、シェルドン・レナードのプロデュース・シリーズである『Make Room for Daddy 』、『The Dick Van Dyke Show 』、『メイベリー110番』、『I Spy 』などはデシル・スタジオで撮影され、このロゴが表示される。1967年、デシルはパラマウント映画に買収された。
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