1989年〜1997年 ルノーとの黄金期
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「ウィリアムズF1」の記事における「1989年〜1997年 ルノーとの黄金期」の解説
1989年にターボ禁止・NA統一が導入されるとルノーと契約し、マシンとエンジンの英仏共同開発路線を整えた。ルノーエンジンとのマッチングも上手くいったため、ジャッドとは比較にならない程の戦闘力に高まり、マンセルの後任となったティエリー・ブーツェンがカナダGPでは当時の最遅初優勝記録という形で優勝。最終戦も彼が制し、シーズンで計2勝を挙げた。 1990年にはリカルド・パトレーゼがサンマリノGPで久々の優勝をし、ブーツェンもハンガリーGPでポール・トゥ・ウィンを果たした。シーズン途中にはレイトンハウスから前衛的な空力設計者エイドリアン・ニューウェイが加入。堅実な性格のヘッドとの異なる個性が融合したFW14が生み出される。 マンセルが復帰した1991年は序盤にセミオートマチックトランスミッションのトラブルが多発。その後マクラーレンを急追するも、チームのミスなどが祟り、タイトルを逃した。 1992年はアクティブサスペンションやトラクションコントロールを搭載したハイテクマシン、FW14Bが他チームを圧倒する速さで計10勝を挙げ、マンセルと共にダブルタイトルを獲得した。しかし、マンセルはチームとの契約更新を巡る関係悪化から突如F1引退を表明(後にアメリカのCARTへ転向)、パトレーゼもチームの方針に対して嫌気が差し、ベネトンへ移籍した。 1993年はFW14Bの正常進化形であるFW15Cを投入、1年間の休養から復帰したアラン・プロストと、テストドライバーから昇格したデイモン・ヒルがコンビを組んだ。前年チャンピオン不在のためカーナンバーは"0"と"2"となるが、プロストはフランス語で無能を示唆する"0"ではなく"2"を選んだ。プロストは4度目のタイトル獲得を最後に現役を引退し、ヒルは後半戦にかけて初優勝をふくむ3勝を挙げた。ウィリアムズは1992年から1993年にかけて24戦連続ポールポジションという記録を残し、F1マシンの電子制御の進化を牽引した。このシーズンを持ってメインスポンサーだったキヤノン、およびキャメルとの関係が終了。1985年から使われていた「青・黄・白・赤」のカラーリングも見納めになった。 1994年はロスマンズが新たにメインスポンサーとなり、ウィリアムズ入りを熱望していたアイルトン・セナが加入した。シーズン開幕前からこの組み合わせでチャンピオンは決定しているとさえ言われたが、ハイテクデバイス禁止を受けてデザインされたFW16は極端に不安定な特性をもち、ベネトンのミハエル・シューマッハに開幕連勝を許す。さらに第3戦サンマリノGPではセナがタンブレロコーナーのコンクリートウォールに激突、帰らぬ人となった(この事故以降、ウィリアムズのマシンにはセナのSマークが刻まれている)。イタリアの検察は過失致死の疑いでチーム首脳を告訴し、以後10年以上に渡り裁判が続くことになる(2005年に全員無罪が確定)。セナの後任にはテストドライバーのデビッド・クルサードが昇格したが、CARTの合間を縫ってマンセルもスポット参戦した。突如としてエースの重責を負うことになったヒルは、シューマッハが失格や出場停止となる間にポイント差を縮め、最終戦オーストラリアGPでの直接対決に持ち込んだが、シューマッハとの接触により涙を呑んだ(コンストラクターズは3連覇達成)。 1995年はベネトンもルノーエンジンを獲得し、同エンジンでの対決が注目された。予選の速さにおいてはベネトンを上回っていたが、シューマッハとロス・ブラウンの作戦に翻弄されたり、チームやドライバーのミス、FW17の信頼性に難があったことなどが災いし、ベネトンとシューマッハにダブルタイトルを奪われる結果に終わる。ヒルは「ウィリアムズは勝つ為なら手段を選ばないチームではなかった」「ベネトンは実質的にミハエル・シューマッハーのワンマンチームだから、彼を徹底的にマークすれば当然勝機は増す。でもウイリアムズはそう言う戦い方を選ばない矜持を持っていた」と当時を語っている。またこの年を以って、1978年以来のディドコットからグローブに本拠を移転している。 1996年はマクラーレンに移籍したクルサードに代わり、CARTチャンピオンのジャック・ヴィルヌーヴが加入し、ヒルと二世ドライバーコンビを組む。ヴィルヌーヴはデビュー戦からポールポジションを獲得しあわや優勝と言う電撃的デビューを飾る。FW18が16戦12勝を挙げるほど他チームを圧倒する戦闘力を誇ったこともあり、チャンピオン争いはヒルとヴィルヌーヴの一騎打ちとなる。最終戦日本GPでヒルは史上初の親子二代チャンピオンを決定するも契約延長交渉が決裂、マンセル同様にチャンピオンがチームを去ることになった。そしてこの一件がニューウェイの堪忍袋の緒が切れる最後の一押しとなってしまい(これに関する事前の相談もなかった)、後述の理由もあり、ニューウェイはマクラーレンへの移籍を決断することとなった。 このヒルの解雇劇についてあまり語られておらず、本人も当時はこの件について語りたくないと沈黙し、後年のインタビューでいくつか語ったものの、詳細は不明である。これに関して書かれた当時の記事の内容では、契約金の交渉が行われていないことからウィリアムズはヒルの放出を内定している可能性があり、ヒルが大きく譲歩しないと残留は難しい考えられており、当時のストーブリーグの噂でもヒルが1997年もウィリアムズ残留できるか怪しいという見解が占めていた。また、ウィリアムズから見れば、1994年と1995年はヒルがドライバーズタイトル獲得の可能性があったにもかかわらず、ミハエル・シューマッハに敗れる結果になったことから今年度で見切りをつけることにしたという見方もあった。他にもフレンツェンの起用に関しては、フジテレビの1996年のF1総集編にて将来のエンジン獲得に有利なドライバーとしてフレンツェンを起用するというコメントがナレーションで語られたことや1994年にセナがチームに対しを1995年のドライバーとしてフレンツェンの起用を提案していたという噂があり、チームはそれをここにきて実現することを選んだという考察を挙げている(1996年時点では一連のウィリアムズの動きからBMWが将来的に参戦するのではという噂話にとどまっており、BMWがウィリアムズとエンジン供給の契約締結とその期間が2000年からの長期契約であることが発表されたのは1997年9月になってからである)。 この時期の出来事について後年のインタビューでいくつか語られており、ヒルに関しては、1997年の契約がないことについてチームから詳細な説明はなかったと語り、ヒル自身は契約金に関しては弁護士に任せていたため、契約金に関する問題に関しては自身の関わっていなかったとコメント。むしろ、この年(1996年)の好成績は(ヒルを放出する予定であった)ウィリアムズ側にとっては予想外で行き詰まってしまったのだろうと語っている。フランクは、ニューウェイのチームの株式保有に関して難色を示したことが結果的にニューウェイ離脱を招いたとして自分のミスだったとも認めている。ただし、ニューウェイはチーム側がドライバー人事に関する約束を守らなかったことを挙げている。その背景には1992年のチームとマンセルを巡る一連の出来事を受け、それ以降はドライバーの選択に関して自分の意見を取り入れることを条件に契約を延長していた。しかし、1996年のドライバー選択でもテスト走行の結果で見切るはずだったヴィルヌーヴを起用し、さらに、個人的に親しかったヒルを放出して1997年はフレンツェンを獲得すると事後報告されたため、そのやり方に嫌気がさし、チームにこれ以上留まらないことを決断した。そんな時期にメルセデスエンジンの開発を担当するイルモアの代表者マリオ・イリエン(マーチ時代の友人)から、メルセデスエンジンを搭載するマクラーレンへの加入を誘われた、と語っている。一方でヘッドはニューウェイがマクラーレン代表のロン・デニスと交渉していることを示唆する書類を偶然目にし、その交渉内容はチームが応じられない内容であることが判明。それで半ば諦めたと語っている。 どのような経緯があったとしても、後年フランク・ウィリアムズ自身が「ヒル放出」を「あれは大きな失敗だったな」と認めるほどであり、FW19での活躍を最後にBMWのワークスエンジンを得るまで一旦チームは低迷期に入ることとなる。 翌1997年はヒルに替わりハインツ・ハラルド・フレンツェンが加入。だが、ニューウェイは最後の仕事としてFW19の完成を見届けると同時に出社を拒否。そのため、チームとの間で法廷闘争にまで発展。チーム内の混乱はあったが、FW19が依然優位というのが大方の予想であった。ところが、ヒルやニューウェイといったマシンに精通した人材に一時的に穴が開いてしまったことにより、マシンのセッティングに苦慮し、チームの戦略ミスなどもあって、ヴィルヌーブとフェラーリのシューマッハの激しいタイトル争いとなった。最終戦ヨーロッパGPの直接対決では、シューマッハとの接触を乗り切ったヴィルヌーヴがチャンピオンを獲得し、コンストラクターズタイトルも制した。このシーズン末をもってルノーは予定通りF1から撤退、9年間に渡る蜜月関係にピリオドが打たれた。
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