1989年から現在まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 14:27 UTC 版)
「労働党 (オランダ)」の記事における「1989年から現在まで」の解説
1989年の選挙後、キリスト教民主アピールとの連立政権に復帰し、コックは第3次ルード・ルベルス(英語版)内閣の副首相兼財務大臣に就任した。労働党は公営企業の民営化や福祉国家の見直しなど、ルベルス政権が着手した経済改革を受け入れつつ与党に留まった。党の姿勢に対しては労働組合から強い抗議を受けたのみならず、党内でも大きな波紋を広げた。 1994年の選挙では、連立与党は議会で過半数割れとなったものの、労働党が議会第1党になり、コックは労働党、自由民主国民党、民主66による連立政権を樹立した(第1次コック内閣)。1918年以降初めてキリスト教民主主義政党が与党を降り、社会民主主義政党(赤)と自由主義政党(青)による連立政権であることから「紫連立(英語版)」とも呼ばれた。コックの人気は高く、1998年の選挙でも、民主66の議席減を尻目に労働党と自由民主国民党が議席を伸ばしたため、同じ連立枠組みによる政権が継続された(第2次コック内閣)。 2001年にコックは次期総選挙での政界引退を表明し、アド・メルケルト(英語版)に党首の座を譲った。2002年の総選挙では、メルケルトがコックに比してカリスマ性が乏しいこと、ピム・フォルタイン党が台頭し、フォルタインの掲げる移民問題などに十分応えることが出来なかったことが相俟って、選挙前の45議席から23議席に議席を減らす大敗を喫した。選挙後、メルケルトは党首を辞任し労働党も野党に下った。 その後、ファウター・ボス(英語版)が党員によるレファレンダムで党首に選出され、党組織の民主化に着手しイデオロギー上の方向性を大きく変えた。2003年の選挙では、ボスが前回選挙で失ったほぼ全ての議席を奪還、再び議会第2党となったが、キリスト教民主アピールとの連立与党入りへの交渉が難航し、野党に留まった。2006年の地方選挙では党改革が奏功し大勝し、第1党に躍進したものの、国政選挙では与党の社会福祉切り捨てを厳しく批判する社会党へ票が流れ、9議席を失うなど敗北した。選挙後の連立交渉でキリスト教民主アピール、労働党、キリスト教連合による第4次バルケネンデ内閣に参加したが、2010年の総選挙前に連立政権から離脱した。 2012年の総選挙では議席を回復させ、自由民主国民党と労働党による第2次マルク・ルッテ内閣に参加した。2016年にはローデウェイク・アッシャー(英語版)が新党首に選ばれたが、2017年の総選挙では9議席しか獲得できず、オランダの選挙史上最大の敗北(29議席減)を喫した。2019年の欧州議会選挙では各党で最多の議席を獲得した。2021年1月にアッシャーは育児手当に関するスキャンダルのために党首を辞任し、リリアンヌ・プルメン(英語版)が党首に就任した。同年3月の総選挙では選挙前と同じ9議席を維持した。ブルメンは2022年4月に党首及び国会議員を辞任した。
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