1989年のローテーション
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 18:10 UTC 版)
「オグリキャップ」の記事における「1989年のローテーション」の解説
3ヵ月半の間に6つのレースに出走した1989年のオグリキャップのローテーション、とくに前述の連闘については、多くの競馬ファンおよびマスコミ、競馬関係者は否定的ないし批判的であった。この年の秋に多くのレースに出走するローテーションが組まれた背景については、「オグリ獲得のために動いた高額なトレードマネーを回収するためには、とにかくレースで稼いでもらう」よりほかはなく「馬を酷使してでも賞金を稼がせようとしているのでは」という推測がなされた。 調教師の瀬戸口はマイルチャンピオンシップ後にジャパンカップにオグリキャップを出走させる際、このローテーションを巡って起きた議論に対し、「あの馬には常識は通用せんのや」と発言した。しかし、連闘に加えオールカマーに出走させたことについては「無理は少しあったと思います」と述べた。また連闘が決定した経緯について調教助手の辻本光雄は、「オグリキャップは途中から入ってきた馬やし、どうしてもオーナーの考えは優先するんちゃうかな」と、馬主の近藤の意向を受けてのものであったことを示唆している。ただしジャパンカップでの調子自体については絶好調で「連闘の疲れなんてなかった」と述べている。一方、近藤は連闘について、「馬には、調子のいいとき、というのが必ずあるんです。実際に馬を見て判断して、調教師とも相談して決めたことです。無理使いとか、酷使とかいわれるのは非常に心外」としている。また稲葉牧場の稲葉裕治は、「あくまで馬の体調を見て、判断すればいいことじゃないでしょうか」と近藤に同調した。 しかしこの年最後の出走となった有馬記念では、近藤の主張に反してオグリキャップの体調に不安を感じる関係者もおり、パドックでは厩務員の池江がオグリキャップの歩く力の弱さを感じていた。同じくパドックで笠松時代の調教師であった鷲見が近藤からオグリキャップの状態を見るよう頼まれ、「疲れきっとるようです。休ませんと可哀相です」と答えている。鷲見はまた、レース後にオグリキャップを訪ねた時の印象について「爪がすり減って、休ませなかったらパンクしてしまう所まで来ていた」と述べている。レース後には近藤や辻本の見解も変化し、近藤は「負けた原因はテキ(瀬戸口調教師)も辻本助手もわかっている。元気そうに見えてもやはり生き物だから」と述べ、オグリキャップに疲れがあった状態で出走させてしまったことを認めた。辻本も「少しは疲れはあったと思う」と認めて「ここまで本当によく頑張ってくれた」とオグリキャップの苦労を称えた。南井克巳も有馬記念直後のインタビューで、敗因は前に行きすぎた事かもしれないとしつつ、「追い切りがこの馬にしては物足りない気もした」と語った。南井は2010年7月29日に行われた「お別れ会」での挨拶の場において、この年のローテーションを回顧し、「天性のタフな資質に、厩舎の力が加わったからこそ、ああいうローテーションでも状態が維持できたのでしょう」と述べている。
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