党改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/02 13:02 UTC 版)
「ジャンフランコ・フィーニ」の記事における「党改革」の解説
フィーニは極右政党のままでは冷戦終結後の政界で立ち居地を確保するのは難しいと考えており、党の新たな指標に自由主義・保守主義を掲げる事を強く主張した。また様々な理屈があるにせよ、同党がファシスト党の後継であるという事実を、党名をイタリア国民右翼へ変更するなどの諸策で緩和しようと試みた。だがこうした改革の多くは前述のピーノ・ラウッチらを初めとする強硬派グループの強力な反発を受けた。 加えてフィーニ自身も熱烈なファシストであり、また党員達もそうであった。「我々はファシストの後継者である」(1991年)、「半世紀を経た今日もファシズムは生き続けている」(1992年)、「ファシズムとは良心であり、正直さである」(1992年)、「ムッソリーニは我が祖国にとって最良の指導者であった」(1994年)等、ファシズムやムッソリーニ政権を支持する発言は党首就任後もしばしば行われた。 とはいえ一定の穏健化は得票には結び付かなかったものの、それまでMSIを敬遠していた企業からの経済支援を得れる様になった。1993年のローマ市長選では党首のフィーニが出馬、決選投票で敗れるものの組織の再建が進んでいる事を証明した。因みにこの時フィーニ陣営を支援した人物の一人にまだ企業家であったシルヴィオ・ベルルスコーニが含まれていた。
※この「党改革」の解説は、「ジャンフランコ・フィーニ」の解説の一部です。
「党改革」を含む「ジャンフランコ・フィーニ」の記事については、「ジャンフランコ・フィーニ」の概要を参照ください。
- 党改革のページへのリンク