2000年代: ウィリアムズ時代
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「BMWザウバー」の記事における「2000年代: ウィリアムズ時代」の解説
F1復帰を決断したBMWは1997年にウィリアムズと契約し、2000年の復帰に向け、アドバイザーとしてかつてのドライバー、ゲルハルト・ベルガーを迎えるなど準備をはじめた。手始めにウィリアムズ製のテストシャシーに自社開発のV12エンジンを載せて初期の開発を行ったBMWは、実戦テストという思惑もあって、このエンジンを搭載したBMW V12 LMRを1999年にル・マン24時間レースに参戦させ、優勝というこの上ない形で成果を結実させた。 同時に、同年にはウィリアムズのF1シャシーを使用し、いよいよ翌年のF1参戦用のV10エンジンのテストを開始する。 2000年、ラルフ・シューマッハとこの年デビューとなるジェンソン・バトンを擁して迎える。開幕前の時点ではテスト時のタイムがあまりにも遅かったため「BMWはエンジン開発に失敗した」ともっぱらの評判であったが、復帰戦となったオーストラリアGPで下馬評を覆す好走を見せ、見事に復帰戦を表彰台で飾り、シーズン自体も年間通して復帰初年度としては上々の出来で終える。 続く2001年、復帰2年目ながらもこの頃になるとBMWエンジンは極めて高い評価を得ており、特にエンジンパワーの面では優位性を確立していた。この年はラルフ・シューマッハが3勝をあげ、CARTチャンピオンの新人ファン・パブロ・モントーヤも初優勝を記録している。 2002年はモントーヤがポールポジション7回を獲得しながらも、結果につなげることができず、ラルフが1勝するに留まったが、コンストラクターズ2位に浮上。2003年はラルフ、モントーヤともに2勝ずつあげ、モントーヤはシーズン終盤までドライバーズタイトル、チームとしても最終戦までコンストラクターズタイトルを争うがあと一歩のところで両タイトルを逃したが、前年と同じく、コンストラクターズ2位を獲得。2003年はBMWにとっては大成功といえるシーズンとなった。これ以降もさらなる躍進が期待されたが、レギュレーションの影響やマシン開発をめぐってBMWとウィリアムズは衝突し、成績面も下降線を下り始めることとなる。 2004年はエンジン規定の変更やマシン開発の失敗の影響で1勝(この年はモントーヤが最終戦に記録)で終わったうえ、コンストラクターズ4位に転落。このせいでウィリアムズのシャシー部門とBMW側との間には徐々に摩擦が生じ、これらの状況の解消をはかったBMW側はウィリアムズチームの買収を検討するが、これには同チーム代表であるフランク・ウイリアムズとパトリック・ヘッドが頑なに拒否。BMWとウィリアムズの間には不協和音が生じつつあった。2005年、ドライバーのラインナップが一新され、マーク・ウェバーとニック・ハイドフェルドという共に若さと一定の経験を兼ね備えたコンビとなる。ドライバーたちは健闘したといえるが、チームは低迷し、トップからは大きく離されたランキング5位でシーズンを終える。BMWがこの年に向けて開発していたP85エンジンは、唐突に発表された2レース1エンジン規定に対応できなかったので(1レース1エンジン前提で開発をしていたため)、この年は前年型を手直ししたのみのP84/5エンジンで戦っていた。そのことも響き、シーズン中はチーム内でシャーシ部門とエンジン部門の間で責任の押し付け合いとなり、いよいよウィリアムズとの亀裂は決定的となる。 BMWウィリアムズチームとしての6年間だが、最初の2年間でエンジンは高評価を得ることに成功し、その集大成が2003年に結実することとなった。だが、各シーズンをドライバーのミスでチャンスを生かし切れなかったことやその信頼性に泣かされることも少なく順風満帆とは言えなかった。そのうえ、2003年シーズン以外はタイトル争いは無理でも優勝を重ねるチャンスはあったもののそれを生かし切れずに終えてしまった。それでも、2003年まではレース成績としては十分に成功を収めたと言ってよいシーズンを送っていたのだが、2000年から2004年の間はフェラーリがF1シリーズを席巻していた影響によって、その結果が陰に隠れてしまった面もあった。
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