2000年代 - メジャー団体分裂による勢力再編
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「プロレス」の記事における「2000年代 - メジャー団体分裂による勢力再編」の解説
2000年代に入ると日本のプロレス界の勢力が一変した。全日本プロレスでは馬場の死後は社長に就いた三沢光晴と馬場の未亡人として経営の権限を持つ馬場元子が団体運営を巡って対立して、三沢は殆どの所属選手と共に団体を退団してプロレスリング・ノアを旗揚げ。新日本プロレスでも橋本真也が解雇されて新たにプロレスリングZERO-ONEを旗揚げして新たな4団体時代を迎えた。一方、所属選手の殆どを失った全日本プロレスは団体存続をかけて新日本プロレスとの交流に踏み切った。2002年に武藤敬司が新日本プロレスを退団して全日本プロレスに移籍して、10月に同団体の社長に就任している。メジャー団体とインディー団体の交流は1990年代から頻繁に行われていたが、2000年代以降はメジャー団体同士の交流も盛んに行われるようになった。この頃からWWEが日本でも人気を博して、その流れを受けてファンタジーファイトWRESTLE-1、ハッスル、DDTプロレスリングなどエンターテインメント志向の興行が行われるようになった。2006年には国内初のプロレス統一機構の確立を目指しグローバル・レスリング連盟が発足したが、わずか1年で連盟としての活動は途絶えている。2000年代前半はいわゆる第三世代が台頭するが、人気面で上の世代である三銃士、四天王を凌駕することはできず依然として旧世代が興行の中心を担う形となった。しかし、2005年に橋本が、2009年に三沢が急逝し他の三銃士、四天王も退団や負傷欠場などによって定期参戦がままならない状態となり、さらに2000年代後半からは第三世代の下にあたる第四世代とも言える新世代の台頭が著しくなり各プロレス団体の勢力図が変革されていった。女子プロレスも2005年に全日本女子プロレスが活動を完全に停止、それと入れ替わるようにアイスリボンやプロレスリングWAVEなどの新興団体が勢力を伸長させていった。 この時代に入ると、社会人プロレス団体が営利団体化してローカルインディー団体に昇格する事例 も増えていった。そうしたプロレス団体の一つが屋台村プロレスからデビューした高木三四郎が率いるDDTプロレスリングであった。
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