2000年代の不破・志位体制と国政における小政党化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 09:22 UTC 版)
「日本共産党」の記事における「2000年代の不破・志位体制と国政における小政党化」の解説
2000年の第22回党大会第7回中央委員会総会(7中総)では、党規約から「前衛党」規定を削除する規約改定案が提案され採択された。また自衛隊解消前の「過渡期な時期」に必要に迫られた場合には「存在している自衛隊を国民の安全のために活用する」とした(自衛隊活用論)。また、同年不破哲三に代わり志位和夫が委員長となり、不破は宮本に代わり議長となった。この不破・志位体制の成立により、宮本の影響力は低下した。2006年1月11日 - 1月14日に開催された第24回党大会で、いわゆる「現実・柔軟路線」を指導してきた不破哲三が、議長職を高齢と健康などを理由に退き、「委員長志位・書記局長市田体制」(志位・市田体制)が確立した。 共産党の全選挙区擁立戦術は、与党である自民党・公明党の選挙協力体制が緊密化するにつれて、結果的に野党間の候補共倒れ、連立与党候補の過半数に満たない得票率での当選という結果を激増させた。また、共産党候補の供託金没収選挙区も大幅に増え、党の財政を圧迫する要因となった(このため党内でも政党として政党交付金を受け取るべきであるとの意見が党大会前の公開討論の中でも主張されるようになっている)。この間、日本社会党・新進党に代わり民主党が野党第1党となった。 2005年の第44回衆議院議員総選挙では47年ぶりに全選挙区擁立(推薦を含む)を中止したため、25選挙区の「共産空白区」が出てきた。「共産空白区」では与党候補と野党候補が大差の付く選挙区が多く、選挙への影響は小さかった。共産党の小選挙区候補者全275名のうち、223名が10%の得票に届かず供託金を没収された。全300選挙区に候補者を立て235選挙区で没収された前回とさほど変わらない結果だった。共産党自身については、得票数の減少に歯止めがかかった。投票率が上がったため得票率は下がっている。 2006年の国政選挙では、4月と10月に計三選挙区で行われた衆議院議員補欠選挙で、いずれも独自の公認候補を擁立したが、すべての選挙区で落選、供託金も没収されている。また、2007年4月に行われた参議院議員補欠選挙では、福島県選挙区で公認候補を、沖縄県選挙区では、民主党や社民党などと共同推薦候補を擁立したが、いずれも落選、福島県では供託金を没収されている。 国政選挙で単独での小選挙区当選は困難だが、民主党はもとより、護憲という立場で政策距離が近い社民党との選挙協力の目処も立っていない。その一方、市町村合併にともなう各地の地方選挙では着実に当選者を出し、政党所属の地方議員の総数では公明党、自民党に次いで第3党の位置を保っている。また他党との協力については東京都多摩地区や青森県、沖縄県などで一定の共闘が実現している。国会内では、2007年9月4日に野党の国対委員長会談に復帰し、他の野党との共闘を強化することになった。 2007年9月8日の第5回中央委員会総会で、次の総選挙から、すべての小選挙区に候補を擁立するのではなく、その小選挙区での比例区の得票率が8%以上の選挙区に擁立する選挙区を絞り込む(ただし、各都道府県で最低1人は候補の擁立を目指す)方針を幹部会は提案した。9月9日、中央委員会はこの提案に賛成し、決定した。この背景には、得票率が10%を割ると供託金が没収されることによって、党財政の悪化の原因となっていることがあるとされる。 2008年9月、麻生内閣の発足に伴い、総選挙への総決起体制として第7回中央委員会総会を開いた。席上で志位委員長は、「働く貧困層」の解消など、自党の語ってきた問題が争点になっていること、自公政権が行き詰まっていること、しかし民主党は自民党の政治悪をただす立場にはないから、共産党の躍進が必要であることなどを述べた。また、「民主連合政府」が求められていることを強調したが、現時点で他党との協力はないという認識は変わっていない。ただし、国会では是々非々で「問題ごとに協力していく」としている。また、総選挙体制のため中央委員会は、2009年1月に予定していた党大会の延期を決定した。 2009年8月30日投開票の第45回衆議院議員総選挙では小選挙区の候補を大幅に減らした。これは野党共闘目的ではなく、小選挙区では候補者を立てるだけの力がないところがあるという判断から、比例区と支持基盤のある小選挙区に候補を絞り込もうとする方針転換である。代わりに、比例区との重複立候補を増やしたので、比例での候補者数は増えた。また、大連立騒動や小沢・鳩山の献金問題などから改めて民主党を自民党と「同質・同類の党」と批判し、明確に共闘を否定してきた。さらに、2009年6月5日には、志位委員長は「どちらが政権の担い手になるかの選択ではなく、21世紀の日本の「進むべき道」の選択が問われていること、その「旗印」を示せる党は日本共産党をおいてほかになく」「「二大政党」の競い合いによる暗黒政治への逆行を許さない一番たしかな力は日本共産党をのばすこと」と述べ、民主党による政権交代は無意味どころか、暗黒政治への逆行になるとの見解を示した。 しかし、同年7月には東京都議会議員選挙で44年ぶりに議席が1桁(8議席)に落ち込んだ結果を踏まえ、若干路線を修正。民主党内の改憲論や衆院比例定数削減方針に反対する一方で、「一致点での協力を追求」と明記。労働者派遣法や障害者自立支援法の抜本改正、後期高齢者医療制度の撤廃、農家への所得補償、在日米軍基地の縮小・撤去などを挙げ、「(自公両党による)暗黒政治への逆行を許さない」と強調し、民主党を「暗黒政治」の批判対象から外した。一方、自民党の松浪健四郎は、第45回総選挙において、共産党の独自候補擁立が自党有利になるとの見解を示した。選挙区によっては、自民党が直接共産党に擁立を働きかけた事例もある。結果として議席数は現状維持であり得票率は郵政選挙の7.25%から7.03%に後退したものの、得票数では491万9000票から494万4000票と増加した。選挙後発足した民主党を中心とする非自民・非共産連立政権に対しては、「建設的野党」として「良いことには協力、悪いことにはきっぱり反対、問題点はただす」と是々非々の立場を貫くと主張している。その他、2008年にニコニコ動画に党公式チャンネルを設置したり、TwitterやFacebookに党公式アカウントを取得するなど、このころからネット選挙を意識した試みを行っている。 2010年の第22回参議院議員通常選挙では、民国連立政権の普天間基地移設問題における違約や、菅直人の消費税増税発言などを厳しく批判した。しかし、議席を伸ばしたのはみんなの党と自民党で、共産党は比例のみの3議席に留まり、また得票数・率共に減らした。その結果、敗北を認める声明を出し、「党内外の方々のご意見・ご批判に真摯に耳を傾け、掘り下げた自己検討をおこなう決意」を表明した。さらに、9月25日~9月27日に行われた第2回中央委員会総会(2中総)で、志位委員長は参院選での後退を詫び、党員数は40万を維持しているものの、高齢化が進んでいること、党費納入率が62%に留まっているなどのデータを挙げ、党勢の衰退を認めた。その上で、「五つの挑戦」を打ち出し、次期総選挙で650万票を目標とすることを表明した。 従来40万人としていた党員数だったが、2012年5月24日、全国活動者会議で志位委員長が報告したところによると、「実態のない党員(幽霊党員)」が9万人以上いたためすべて離党させ、2012年5月1日現在で党員数は31万8千人になったと報告した。また、国政選挙での供託金の負担を、従来は党中央と地方組織で折半していたものを、6対4に改め地方組織の負担を減らした。 2011年3月11日に発生した東日本大震災では組織的な被災地支援活動を行った。また、岩手県、宮城県、福島県の被災3県の県議選では復興や原発ゼロを訴え、いずれも前回を上回る議席を獲得した。
※この「2000年代の不破・志位体制と国政における小政党化」の解説は、「日本共産党」の解説の一部です。
「2000年代の不破・志位体制と国政における小政党化」を含む「日本共産党」の記事については、「日本共産党」の概要を参照ください。
- 2000年代の不破・志位体制と国政における小政党化のページへのリンク