2003年シーズン
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「マクラーレン・MP4-17」の記事における「2003年シーズン」の解説
ドライバーは前年からの継続。開幕戦はクルサードが第2戦はライコネンが優勝し、幸先のよいスタートを切る。その後ライコネンは優勝こそ無いものの、表彰台を確実に獲得していき、タイトル争いに絡んでいく。第15戦アメリカGPで天候の急変にうまく対応できず、ミハエル・シューマッハ1位、ライコネン2位となり、何とかタイトル獲得の可能性を残したが、9ポイント差という絶望的な状況で最終戦を迎えた。最終戦日本GPでも予選で天気が急変。ミハエルは予選14番手に沈み、さらにレース中の接触事故によって最後尾に落ちた。ライコネンが優勝し、ミハエルが入賞できなければライコネンがチャンピオンとなる。しかし、トップは同じくフェラーリのルーベンス・バリチェロが走行していた。結局ライコネンが2位、ミハエルが8位となり、ライコネンはたった2ポイント差でチャンピオンを逃した。 クルサードは開幕戦で優勝したが、その後は第12戦ドイツGPと最終戦日本GP以外は表彰台にあがることができず、タイトル争いに加わることも無く、ランキングはルノーのフェルナンド・アロンソのひとつ下の7位でシーズンを終えた。2003年シーズン終了後にファン・パブロ・モントーヤがマクラーレンへの2005年からの移籍を発表。クルサードは2004年いっぱいでマクラーレンを去ることが決まってしまった。
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2003年シーズン
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「ジョーダン・EJ13」の記事における「2003年シーズン」の解説
レースドライバーは前年からの起用となるジャンカルロ・フィジケラとルーキーのラルフ・ファーマン、そして2戦のみスポット参戦したゾルト・バウムガルトナーの3人。日本GPでは本山哲が金曜フリー走行に参加した。 大荒れの第3戦ブラジルグランプリにおいて、フィジケラが自身の初優勝を飾る健闘を見せるが入賞はこの1勝を含めて2回にとどまった。ルーキーのファーマンはスペイングランプリで8位入賞を果たしたが、ハンガリーグランプリのフリー走行2日目、走行中に突然リアウィングが外れるトラブルに見舞われてタイヤバリアに突っ込む大クラッシュを喫して2レースを欠場。代役としてサードドライバーのバウムガルトナーがハンガリー人初のF1ドライバーとしてデビューするに至った。 結局このシーズンは1勝を含むが入賞は3回となり、ランキング9位に終わった。
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2003年シーズン
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「ロドニー・ハリソン」の記事における「2003年シーズン」の解説
フリーエージェントとなったハリソンはAFC東地区に所属するニューイングランド・ペイトリオッツと6年契約を結んだ。当時ペイトリオッツにはディフェンスの中心選手であり過去5シーズンで4度プロボウルに選出されたSロウヤー・ミロイが在籍していたが、チームはサラリーキャップの問題からシーズン開幕の5日前にミロイを放出し、その後ミロイは開幕戦の対戦相手であるバッファロー・ビルズと契約した。ファンから大きな信頼を得ていたミロイの放出には多くの疑問の声が寄せられた。ESPNの解説者トム・ジャクソンはペイトリオッツの選手たちはミロイの放出に大きな怒りを感じているとレポートし、「彼らは自分たちのヘッドコーチ(ビル・ベリチック)を嫌っている。」と発言した。その開幕戦でペイトリオッツは31-0の完敗を喫し、第4週のワシントン・レッドスキンズ戦でも破れ2勝2敗のスタートとなる。しかしそこからチームは快進撃をはじめ、第5週からレギュラーシーズン終了まで12連勝を果たし14勝2敗でAFC第1シードでプレーオフ進出を決めた。ハリソンはチームトップの94ソロタックルを含む127タックル、さらに3サック3INTを記録し自身2度目のオールプロ1stチームに選出された。 プレーオフ初戦のテネシー・タイタンズ戦では5タックルに加えTDにつながるINTを記録しチームは17-14で競り勝った。続くAFCチャンピオンシップゲームのインディアナポリス・コルツ戦でもエンドゾーン内でQBペイトン・マニングのパスをINTするなどチームトップの9タックル1ファンブルフォースの活躍を見せ、チームはハリソンが奪った2つのターンオーバーを含む計5つのターンオーバーをコルツオフェンスから奪い24-14で勝利した。カロライナ・パンサーズとの対戦となった第38回スーパーボウルでは試合終盤で腕を負傷し交代を余儀なくされるも、チームトップの9タックル(1サック)を記録した。試合は同点で迎えた試合時間残り1分8秒からペイトリオッツがQBトム・ブレイディを中心にFG圏内までボールを進め、最後はKアダム・ビナティエリが第36回スーパーボウルの再現となるウイニングFGを決め32-29で勝利を収めた。ハリソンはプロ10年目のシーズンにして初のスーパーボウル・リングを手にした。
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2003年シーズン
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「トム・ブレイディ」の記事における「2003年シーズン」の解説
第1週のバッファロー・ビルズ戦でブレイディはキャリアワーストの4INTを投じ、チームは31-0で完敗を喫した。第4週でも敗れ2勝2敗とスタートに失敗し、主力の放出と相俟ってHCベリチックに対する批判の声も上がった。しかしその後チームは快進撃をはじめ、第5週からレギュラーシーズン終了まで12連勝を果たした。ブレイディはパス3,620ヤード・23TD・レイティング85.9の活躍をおさめ、チームは14勝2敗で2年ぶりの地区優勝を果たした。ブレイディはMVP投票においてダブル受賞したスティーブ・マクネアとペイトン・マニングに次ぐ票を獲得し、プレーオフではその二人が所属するテネシー・タイタンズとインディアナポリス・コルツをそれぞれ破って3年間で2度目のスーパーボウル進出を決めた。 カロライナ・パンサーズとの対戦となった第38回スーパーボウルでは、29-29の同点で迎えた試合時間残り1分8秒から、最後はビナティエリの41ヤード決勝FGにつながるウイニング・ドライブを完成させ、チームを勝利に導いた。ブレイディは当時のスーパーボウル新記録となる32回のパス成功を含む354ヤード・3TDを投じる活躍を見せ、自身2度目となるスーパーボウル制覇と同大会MVP受賞を成し遂げた。スーパーボウルMVPの複数回受賞はジョー・モンタナ(3回)、テリー・ブラッドショー(2回)、バート・スター(2回)と並んで、NFL史上4人目の快挙となった。
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2003年シーズン
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「ニューイングランド・ペイトリオッツ」の記事における「2003年シーズン」の解説
オフにプロボウル選出経験のあるSロドニー・ハリソンを獲得するも、ディフェンスの中心選手で4度のプロボウル選出を誇るSロウヤー・ミロイを開幕5日前に放出した。ミロイは2日後に開幕戦の相手であったバッファロー・ビルズと契約し、その開幕戦でチームは31-0で敗れた。ブレイディは自己ワーストの4INTでキャリア初の完封負けを喫した。さらに第4週でも敗れ2勝2敗とスタートで躓き、中心選手の放出と相俟ってHCベリチックへの批判は強まった。 しかしここからチームは立て直し快進撃をはじめる。第7週のマイアミ・ドルフィンズ戦では試合終盤のFGをリチャード・シーモアがブロックしオーバータイムに突入すると、コイントスでもめたオーバータイムではドルフィンズのKオーリンド・マレーがFGに失敗、ドルフィンズ2度目の攻撃ではINTを奪い、直後のプレーでブレイディがWRトロイ・ブラウンへ82ヤードのTDパスを決め劇的な勝利をおさめた。第9週では敵地マイル・ハイでデンバー・ブロンコスと対戦。第4Q、1点を追いかけるペイトリオッツは自陣1ヤード地点で4thダウンに追い込まれるが、HCベリチックはパントではなく故意のセーフティーを指示する。その結果2点を与え3点差となるが、自陣20ヤードからのフリーキックはブロンコス・リターナー陣の判断ミスもあって64ヤードのビッグパントとなり敵陣15ヤードまで陣地を回復することに成功する。続くブロンコスの攻撃をしのぐと、逆転を賭けたドライブではブレイディがRBケビン・フォークに次々とパスを通し前進していき、最後は残り36秒でWRデイビッド・ギブンスにTDパスを決め30-26で逆転勝利をおさめた。第12週のヒューストン・テキサンズ戦では第4Q残り40秒でブレイディがTEダニエル・グラハムにTDパスを決め同点に追いつくと、テキサンズのレシーブからはじまったオーバータイムでは5回の攻守交代を経て、最後はペイトリオッツの3度目の攻撃でビナティエリが28ヤードの決勝FGを決め23-20で勝利した。続く第13週のインディアナポリス・コルツ戦では第4Q残り40秒でコルツにエンドゾーン前2ヤードまで攻め込まれるも、2度のラン、3rdダウンのパス、4thダウンのランと4度の攻撃を全て凌ぎ切り38-34でコルツの猛追を振り切った。レギュラーシーズン最終週では開幕戦で敗れたビルズに対し、ブレイディの4TDパスの活躍で31-0と開幕戦と同じスコアでリベンジを果たした。ペイトリオッツは14勝2敗でAFC第1シードを獲得し、12連勝でレギュラーシーズンを終えた。 -15℃の中行われたディビジョナル・プレーオフではビナティエリのFGが決勝点となり17-14でこの年のCO-MVPスティーブ・マクネア率いるテネシー・タイタンズに勝利した。そして雪の中、ホームのジレット・スタジアムで行われたAFCチャンピオンシップゲームでは、同じくCO-MVPのペイトン・マニング率いるインディアナポリス・コルツと対戦した。ワイルドカード・プレーオフではデンバー・ブロンコスを相手に41得点、ディビジョナル・プレーオフではカンザスシティ・チーフスを相手に38得点をあげるなど圧倒的な攻撃力を誇ったコルツのハイパー・オフェンスに対し、ペイトリオッツは多彩なスキームを駆使したパスラッシュで4つのサックを浴びせるなどQBマニングを苦しめ、強力レシーバー陣にはバンプを多用したフィジカルなパス・カバレッジと執拗なハードヒットで対抗した。ペイトリオッツはコルツから4つのインターセプト(うち3つはタイ・ロー)を含む5つのターンオーバーを奪うなど、セカンダリー陣を中心にハードなディフェンスでコルツオフェンスを圧倒した。3INTを記録したCBローはコルツのエースWRマービン・ハリソンをわずか3キャッチ(うち1つでファンブルロスト)19ヤードに抑えこんだ。この試合でペイトリオッツのセカンダリー陣が見せたパスカバーは次のシーズンから通称タイ・ロー・ルールとして厳格化されている。オフェンスではオープニングドライブでタッチダウンを奪った以降はビナティエリの5本のFGで常にリードを保ち、24-14で勝利した。そしてテキサス州ヒューストンのリライアント・スタジアムで行われた第38回スーパーボウルではジェイク・デローム率いるカロライナ・パンサーズと対戦。第4Qに37点が入り乱れた激戦は残り9秒でアダム・ビナティエリが41ヤードの決勝FGを決めて32-29で勝利し、2年ぶり2度目のスーパーボウル制覇を果たした。ブレイディが2度目のスーパーボウルMVPに輝き、真っ赤なキャデラックを手に入れた。
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2003年シーズン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/11/07 02:35 UTC 版)
「ひまつぶし軍団」の記事における「2003年シーズン」の解説
2003年10月から2004年3月までの約半年間、月曜日の24:30から25:00まで放送。 コーナーに採用されるごとに1ヘンミをもらうことができ、その回の中で最も団長が気に入ったネタにはヒマVPとして2ヘンミがもらえた。そのヘンミを2ヶ月ごとに集計した「FUKUOKAネタ職人ランキング」で1位を獲得した人には団長からのプレゼントが贈られた。 途中で団長が新婚旅行で2度抜けたり、加藤鷹がゲストで登場したこともあった。
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2003年シーズン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/05 14:35 UTC 版)
「ルノー・R23」の記事における「2003年シーズン」の解説
ドライバーはヤルノ・トゥルーリとテストドライバーから昇格したフェルナンド・アロンソの組み合わせとなり、ワークス復帰2年目のシーズンに臨んだ。 第2戦マレーシアGPではアロンソが史上最年少でポールポジションを獲得し、トゥルーリと共にルノー復帰後初となるフロントロー独占を達成。決勝レースでも3位でフィニッシュして史上最年少で表彰台に登るなど、シーズン序盤から前年を上回る安定した成績を残した。 第11戦イギリスGPからR23Bを投入すると、第13戦ハンガリーGPで再びアロンソがポールポジションを獲得。決勝ではミハエル・シューマッハを周回遅れにする完璧な走りでポール・トゥ・ウィンを果たし、自身の最年少優勝記録を樹立するとともに、ワークス・ルノーに1983年オーストリアGP以来となる20年ぶりの優勝をもたらした。 結果、2003年シーズンはハンガリーGPでの1勝を含む5回の表彰台を獲得。コンストラクターズ・ランキングは2年連続で4位にとどまったが、獲得ポイントは88(2002年は23)と前年を大きく上回ることとなった。
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2003年シーズン
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「B・A・R 005」の記事における「2003年シーズン」の解説
レースドライバーはジャック・ヴィルヌーヴと新加入のジェンソン・バトン。佐藤琢磨がリザーブ兼テストドライバーを務めた。 バトンは予選順位・決勝成績ともにヴィルヌーヴを上回り、アメリカGPではリタイアするまで16周に渡りトップを走行した。ヴィルヌーヴは最終戦で佐藤と交代し、4位・6位のダブル入賞で1年を締めくくった。 チームは26ポイントを獲得し、コンストラクターズ5位でシーズンを終えた。
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2003年シーズン
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「ザウバー・C22」の記事における「2003年シーズン」の解説
ドライバーはニック・ハイドフェルドと前年フェリペ・マッサの代役として1戦のみスポット参戦したハインツ=ハラルド・フレンツェンのドイツコンビとなった(ハイドフェルドとフレンツェンは同じメンヒェングラートバッハ生まれである)。フレンツェンは1996年以来実に7年ぶりにレギュラードライバーとしてザウバーのステアリングを握ることとなった。在籍3年目となるハイドフェルドだったが、最高位はアメリカグランプリの5位入賞に留まった。一方でフレンツェンは同グランプリで3位表彰台を獲得した。このシーズンでは最終的に19ポイントを獲得し、コンストラクターズランキング6位となった。 フレンツェンはこのシーズン限りでF1を引退、1994年にザウバーでデビューしてから9年目、同じチームでキャリアを終えた。ハイドフェルドもザウバーを離脱し、2004年はジョーダンへ移籍した。
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2003年シーズン
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「フェラーリ・F2003-GA」の記事における「2003年シーズン」の解説
エンジンにマウントしたカーボン製サスアームが破断するというトラブルに対策を施すため、フェラーリは開幕3戦を旧モデルの改良型 (F2002B) で戦い、ヨーロッパラウンド初戦の第4戦サンマリノGPよりF2003-GAを投入する予定だった。さらに十分なテスト走行をこなすため、投入は第5戦スペインGPからとなった。 フェラーリとミハエル・シューマッハとっては苦戦の王座防衛となった。スペインGPでデビューウィンを飾り、第6戦オーストリアGPでは燃料再給油の際ガソリンに引火したが、勝利を逃さなかった。しかし、夏以降はスランプに陥り、第13戦ハンガリーGPでは優勝したフェルナンド・アロンソ(ルノー)に周回遅れにされた。この結果を重く見たチームはイタリアGP前に同レースが行われるモンツァ・サーキットでテストを行い、徹底的にマシンを改良した。テストはブリヂストンがこのテストのためだけに2000本のタイヤを用意するほど大規模なもので合計666周を走った。そして迎えたイタリアGPでシューマッハは優勝。ドライバーズチャンピオン争いは接戦となったが、結果的にルーベンス・バリチェロの挙げた2勝がライバル達の高得点を阻止し、シューマッハの4連覇をアシストする形となった。 なお、第14戦イタリアGPで優勝したシューマッハは、平均速度247.585km/hを記録した。これは1971年イタリアGPのピーター・ゲシンの平均速度 (242.616km/h) を更新するF1歴代最速記録となった。 F2003-GAは結果としてチャンピオンマシンとはなったものの、内容は前後2年と比べて大きく見劣りし、ドライバー、エンジニアともに手を焼いていた。しかし、F2003-GAのコンセプトを真似た翌年の他チームがこの欠点まで引き継いだことで、F2004独走の伏線ともなった。
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