F1ドライバーとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 06:29 UTC 版)
「ルイス・ペレス=サラ」の記事における「F1ドライバーとして」の解説
前年のモデナとのタイトル争いが評価され、1988年のF1世界選手権よりペレス=サラはF1にステップアップすることに成功し、ミナルディからデビューを果たした。チームメイトは、前年から所属していた同じくスペイン人のエイドリアン・カンポス。同チームにとっては初めてイタリア人以外の「外国人」コンビで臨んだシーズンとなった。ペレス=サラはすぐにチームメイトをしのぐようになり、結果的に第5戦まででカンポスに予選、決勝とも全勝し、予選落ちを繰り返したカンポスは第5戦で解雇され、第6戦からは1985年にもミナルディでフル参戦ピエルルイジ・マルティニとコンビを組むことになった。最高完走位8位。ペレス=サラはカンポスには完勝したものの、マルティニは移籍初戦のアメリカGPからいきなり6位入賞を果たすなど、チームメイトに対して大きく遅れをとった。尚、この年のミナルディの予選落ちはペレス=サラ、マルティニ共に2回ずつの予選落ちを喫している。(※:余段ではあるが、カンポスは5戦中3戦の予選落ちであった。) 1989年もミナルディに残留し、引き続きマルティニとコンビを組んだ。第8戦イギリスGPでは6位入賞を果たす。これがペレス=サラ自身のF1キャリアの中で最初で最後のポイント獲得となった。この年もマルティニに対して大きく出遅れた感は否めなく、マルティニはパオロ・バリッラにシートを1戦だけ譲った日本GP以外全て予選通過し、5位2回、6位1回の計3回の入賞を果たしているのに対し、ペレス=サラは前述の通り6位入賞1回のみに留まり、予選落ちも4回喫しており事実上の完敗であった事は否めなかった。 ペレス=サラは1988年と1989年の全32戦にエントリーし、計6回の予選落ちを記録している(1988年2回、1989年4回)。決勝への出走回数は26戦を数えるにとどまり、最後のレースとなった1989年オーストラリアGPで予選落ちを喫したため、最後に決勝に出走したレースはその前戦である日本GPとなる。
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