レースとの関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 01:24 UTC 版)
「バーニー・エクレストン」の記事における「レースとの関わり」の解説
ビジネスの傍ら趣味の4輪レースではクーパーのマシンに乗り、たまにF3に出走していた(F1開幕戦1950年イギリスグランプリの前座レースにも出ている)。しかし1951年にブランズハッチで事故を経験するとしばらくレースから離れ、本業に専念した。 1957年、スチュアート・ルイス=エヴァンズのマネージャーとしてレース界に復帰する。活動停止したコンノートのマシンを競売で買取り、転売しようとしたが上手くいかず、結局チームオーナーとしてF1モナコGPに参戦。このレースで4位入賞したルイス=エヴァンズはヴァンウォールへ移籍する。 翌1958年も「B.C.Ecclestone」チームとして数戦出場し、エクレストン自身もF1ドライバーとしてモナコGPにエントリーしたが、あえなく予選落ちを喫する。イギリスGPでは予選突破を果たしたが、ジャック・フェアマンにマシンを譲り決勝では走らなかった。この年の最終戦モロッコGPでヴァンウォール所属のルイス=エヴァンズが大クラッシュを喫して6日後に事故死する。これを機にエクレストンはコンノートを売却し、再びモータースポーツの世界から去った。 しかし、クーパーチームを運営していたロイ・サルヴァドーリの紹介で有望な若手ヨッヘン・リントと出会い、マネージャーとしてF1界に復帰。リントの所属するロータスF2チームの共同所有者にもなった。1970年、リントはドライバーズ選手権をリードしたが、イタリアGP予選中に事故死。死後チャンピオンに決定した。
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