レースとヘンリー・フォード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/25 23:51 UTC 版)
「アレグザンダー・ウィントン」の記事における「レースとヘンリー・フォード」の解説
ウィントンはプロモーションに力を入れており、そのために、広告ももちろんだが、レースにはできる限り出場していた。勝つことが多かったが、負けることもあった。 ウィントンが勝てなかったレースで歴史的な意味をもつものが2つある。1つは1901年10月10日のグロス・ポイント・レース(Grosse Pointe Race)で、余り知られていないほうのヘンリー・フォードとの戦いである。フォードはこのとき38歳で、もう若いとはいえない年だった。フォードの最初の会社は車を12台作っただけでつぶれてしまっていた。彼はレース車に全精力を傾け8000人の観客の目の前でウィントンに挑んだ。10マイルレースで8マイルに差し掛かったときウィントンの車は故障でコースをドロップする。フォードの車はウィントンの脇をすり抜けゴールする。この勝利のおかげでフォードは出資者を募ることができ、彼の2番目の会社を創立することができた。ウィントンは雪辱を果たすことを誓い、1902年、『ウィントン・バレット(Winton Bullet)』を製作し、非公式ながら、70 mph (113 km/h)を記録している。 フォードの2番目の会社はまたもやうまくいかず、一年と15日後に再びウィントンと富と名声を賭けて対戦する。フォードは歴史にその名を残す『999』を用意する。ドライバーは、このレースで名声を獲得するバーニー・オールドフィールドだ。『ウィントン・バレット』での再挑戦でも『999』に乗ったバーニーに打ち負かされた。フォードは再びウィントンに勝った。そして再び出資者を得ることができ、彼の3度目の会社となるフォード・モーター・カンパニーが誕生する。この会社は長寿の会社として現在に至る。ウィントンは、その後も先進技術の車を作り続け、レース車のテストドライバーとしてバーニー・オールドフィールドをフォードから引き抜き雇い入れたりもした。
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