ウィリアムズバーグ、州都へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/31 14:26 UTC 版)
「コロニアル・ウィリアムズバーグ」の記事における「ウィリアムズバーグ、州都へ」の解説
1698年10月20日、ジェームズタウンの州議事堂(議会議事堂建物)は再び焼失した。その後再び、議員達はミドル・プランテーションにあったウィリアム・アンド・メアリー大学で会議を行い、ジェームズタウンでの192年続いた首都としての機能は終了した。続く1699年、ウィリアム・アンド・メアリー大学の学生団体が卒業式にて、当時ジェームズタウンで猛威をふるっていたマラリアや、感染した蛾から身を守るため、植民地政府をミドル・プランテーションへ移設する提案書を提出した。これに興味を示したミドル・プランテーションの土地所有者はその土地を寄付し、その後バージニア植民地の政府はミドル・プランテーションへと移転した。 その後間もなく、ミドル・プランテーションはイギリスのウィリアム3世の栄誉をたたえ、発案者の1人である植民地総督フランシス・ニコルソンによって「ウィリアムズバーグ」と改名された。この新しくできた場所はニコルソンにより、「シャンパン色の土壌から澄んで透明な泉が噴出する」地として描かれ、将来の理想郷への栄光に満ちた像として考えられていたのである。ニコルソンは大学のレンガ校舎および老朽化していたブルートン教区教会を建てるために測量士のセオドリック・ブランドに測量および設計させた。しかしウィリアム3世のイニシャルWとメアリー2世のイニシャルMを道路に配置する以外は白紙に戻された。メインの大通りにはアン王女の長男グロスター公に因んで名付けられた。ニコルソンは北の大通りにニコルソン通り、南の大通りにフランシス通りと名付けた。 1705年、アメリカにおける最初の州都の議事堂建物が、グロスター卿通りの末端に建設された。ウィリアムズバーグは残りの植民地時代における、バージア全体の州都になるところであった。18世紀の81年間、このウィリアムズバーグがバージニア植民地の政治、教育、文化における中心を担っていた。ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、パトリック・ヘンリー、ジェームズ・モンロー、ジェームズ・マディソン、ジョージ・ワイス、ペイトン・ランドルフなどはバージニアの英国政府の形式を推進し、のちに新しいアメリカ合衆国の形成に尽力した。1747年には火事が起き、議事堂が破壊された。その後再び建設されたのだが、アメリカ独立戦争後は荒廃状態に陥った。現在の場所に建つ議事堂建物は、ペリー・ショウ&ヘプバーン社の建築家によりデザインされ、1705年に完成した時の建物を再現して1930年代に建てられたものである。この新しく建てられた議事堂は、1934年2月24日にバージニア州議会の記念会議で公式に開所された。 1934年よりバージニア州の伝統として、コロニアル・ウィリアムズバーグの歴史地区東端に位置するこの議事堂建物へ、バージニア州の議員達が隔年1日だけ集まって会合を開いている。
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