インボーデンの輜重隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 01:46 UTC 版)
「ゲティスバーグからの撤退」の記事における「インボーデンの輜重隊」の解説
7月4日午前1時、リーはその作戦本部にスチュアート配下の騎兵旅団長の1人、ジョン・D・インボーデン准将を呼び、輜重隊の大半を後方に移す手配を命じた。インボーデンの部隊、2,100名の騎兵はこの時までの作戦で大きな役割を果たしておらず、スチュアートが北軍の回りを乗り回す時も選ばれていなかった。リーとスチュアートはインボーデンの旅団を、「無頓着に訓練され非効率的に指揮される」部隊と考えて評価していたが、護衛任務や民兵隊と戦うような任務には効果があった。リーはインボーデンの単一砲兵隊をその歩兵軍団から借りた他の5個砲兵大隊で補強し、スチュアートにはフィッツヒュー・リー准将とウェイド・ハンプトン(この時はローレンス・S・ベイカー大佐が指揮)の旅団がインボーデン隊の側面と後方を守るように指示させた。インボーデン隊はキャッシュタウンを7月4日夜に離れ、グリーンウッドで南に転じて、チェンバーズバーグを避け、ポトマック川を渡るために直接ウィリアムズポートに向かう道を採り、マーティンズバーグまで輜重隊を護衛した。その後インボーデン隊はヘイガーズタウンに戻り、残り部隊の撤退路を守った。 インボーデンの護衛した輜重隊は数百のコネストーガ幌馬車からなっており、狭い道に沿ってその長さは15ないし20マイル(24ないし32 km)にも延びた。これらの馬車を行軍配置に並べ、その護衛を配置し、物資を積み、また負傷者を積み込むことで7月5日の午後遅くまで掛かった。インボーデン自信は午後8時頃にキャッシュタウンを出発し、隊列の先頭に向かった。この移動は極端に惨めなものの1つとなり、7月4日に降り始めた車軸を流すような雨の中を行われ、負傷兵は緩衝装置の無い馬車の中でこの天候と粗い道路に耐えることを強いられた。インボーデン隊は目的地に着くまで止まってはならないとされており、このことは馬車が壊れても置いていくしかないことを意味した。重傷を負っていた者の何人かは地元の市民が見付けて世話をしてくれることを期待して道端に置いて行かれた。輜重隊はその行軍の間嫌がらせを受けた。7月5日の夜明け、グリーンキャッスルの市民が斧を持って輜重隊を襲い、馬車の車輪が外れてしまうまで攻撃した。その日の午後、カニンガム交差点(現在のシアフォス)で、アブラム・ジョーンズ大尉が第1ニューヨーク騎兵隊と第12ペンシルベニア騎兵隊の200名の騎兵を率いて隊列を襲い、荷車134両、馬とロバ600頭を捕獲し、負傷兵のほぼ半分にあたる645名を捕虜にとった。これらの損失はスチュアートをひどく怒らせ、調査のための査問会議を要求することになった。
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