デュケインのスパイ網
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デュケインのスパイ網(Duquesne Spy Ring)は、第二次世界大戦中に摘発されたアメリカ合衆国における史上最大のスパイ事件である。
- ^ “Obituary. Fritz Joubert Duquesne”. Time. (June 4, 1956). ISSN 0040-781X. http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,867000,00.html(要購読契約)
- ^ a b c d e f g Evans, Leslie (2014年4月1日). “Fritz Joubert Duquesne: Boer Avenger, German Spy, Munchausen Fantasist”. 2014年5月19日閲覧。
- ^ “W. Friedemann; helped break spy ring for FBI”. Associated Press. (August 26, 1989). ISSN 01908286.
- ^ a b “Deaths”. Washington Post. (August 26, 1989). ISSN 01908286.
- ^ Wood, Clement (1932). The man who killed Kitchener; the life of Fritz Joubert Duquesne. New York: William Faro, inc
- ^ Burnham, Frederick Russell (1944). Taking Chances. Los Angeles, California: Haynes Corp. pp. 293. ISBN 1-879356-32-5
- ^ Breuer, William B. (2003). The Spy Who Spent the War in Bed: And Other Bizarre Tales from World War II. Wiley. ISBN 0-471-26739-2
- ^ Ross: Strategic Bombing by the United States in World War II
- ^ “Books”. Catalog of Copyright Entries (Washington, DC: Library of Congress) 3 (1): 410. (1949) .
- ^ 同姓だがウィリアム・セボルドとフーゴ・セボルドの間に血縁関係はない。
- 1 デュケインのスパイ網とは
- 2 デュケインのスパイ網の概要
- 3 有罪判決を受けたドイツ側スパイ
- 4 外部リンク
デュケインのスパイ網
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「ニコラウス・リッター」の記事における「デュケインのスパイ網」の解説
詳細は「デュケインのスパイ網」を参照 連邦捜査局(FBI)はセボルドからの情報提供を受け、ドイツのスパイとしてその名を知られたデュケインが再びニューヨークで暗躍していることを知り、ジョン・エドガー・フーヴァー長官はフランクリン・ルーズベルト大統領に対して現状に関する背景情報の説明を行った。デュケインの担当となったFBIのニューカーク捜査官はレイ・マクマナス(Ray McManus)の偽名を用い、セントラルパーク近くのアパートにあったデュケイン宅の真上に部屋を借り、会話を記録するために盗聴用の隠しマイクを設置した。 FBIはタイムズスクエアにて隣接する3つの部屋を借りた。そのうち1つはセボルドの事務所で、彼はここでドイツ側スパイから情報を受取った。これらの情報はFBIによる検閲を経た後、セボルドによって短波通信を用いてドイツ本国へと送られた。残りの2部屋にはドイツ語話者の捜査官が待機し、ヘッドホンを用いて事務所の会話を盗聴していたほか、マジックミラーと動画カメラを用いて会合の様子が撮影されていた。しかし、デュケインが初めて事務所を訪れた時、彼は部屋を探し回った上、セボルドに「マイクはどこだ?」と尋ねて捜査官らを驚かせた。その後にようやく安心したデュケインは、靴下に隠していた文書を取り出した。デュケインが入手していた情報は、例えばM1小銃のスケッチおよび写真、新型軽戦車の設計図面、米海軍の魚雷艇の写真、擲弾発射器の写真、テネシー州ウェストポイント(英語版)の陸軍施設にて調査した米軍戦車に関する情報などであった。デュケインはまた、例えば「ズボンのポケットに穴を開けておき、遅延信管を取り付けた小型爆弾をそこから落とす」といった以前の戦争で使用されたサボタージュの手法に関する話題にも触れて、こうした機材が再び必要になるだろうと語ったという。 1941年6月28日、2年間に渡る捜査の末、FBIはデュケインおよび32人のドイツ側スパイを逮捕し、アメリカの兵器および物流に関する機密情報をドイツへ送っていた容疑で起訴した。1942年1月2日、真珠湾攻撃によるアメリカの第二次世界大戦参戦からわずか1ヶ月弱の後、33人のスパイらには合計して300年以上の懲役刑が課された。歴史家ピーター・ダフィー(Peter Duffy)は、2014年にデュケインのスパイ網を指して「現在においてさえ、アメリカにおける史上最大のスパイ事件だ」と述べた。あるドイツ側諜報指揮官は、この事件が在米諜報組織における「致命傷」(the death blow)だったと語った。また、FBI長官ジョン・エドガー・フーヴァーは、デュケインのスパイ網の摘発が史上最大の防諜作戦だったと述べている。カナリス提督は逮捕されたスパイらの貢献に関する覚書を1942年に残しており、特にデュケインが多数の有用な報告および物品をドイツへ送っていたこと、それらがいずれも重要情報と分類されていたことに触れている。
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