1919年から1939年
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「フリッツ・ジュベール・デュケイン」の記事における「1919年から1939年」の解説
逮捕後、イギリスでの殺人罪に関する起訴を待っている最中、デュケインは麻痺を装いベルビュー病院(英語版)の監獄病棟に送られた。入院からおよそ2年後にして身柄引き渡しの当日にあたる1919年5月25日、デュケインは女装した上で独房の鉄格子を切断して脱獄、さらに監獄病棟の壁を乗り越え脱走を遂げた。当時のニューヨーク市警察本部長リチャード・E・エンライト(Richard E. Enright)は、次のような手配書を作成した。 この男は右足に部分的麻痺を負い、常に杖をついている。治療のために病院や開業医の元を訪れている可能性あり。湿疹の一種である皮膚疾患を負っている。発見、逮捕、拘束した場合はニューヨーク市警察本部捜査課より必要書類を所持した巡査が派遣される。This man is partly paralysed in the right leg and always carries a cane. May apply for treatment at a hospital or private physician. He also has a skin disease which is a form of eczema. If located, arrest, hold and wire, Detective Division, Police Headquarters, New York City, and an officer will be sent for him with necessary papers. 1919年5月27日付『ロンドン・デイリー・メール』(London Daily Mail)では次のような記事が掲載された。 脱走者フリッツ・デュ・ケイン大佐は、次の罪によって我が国政府に追われている。公海上での殺人、英国船舶に対する破壊活動および撃沈、軍施設・倉庫・石炭補給処に対する破壊活動、陰謀、海軍本部文書の改竄。 Col. Fritz du Quesne, a fugitive from justice, is wanted by His Majesty's government for trial on the following charges: Murder on the high seas; the sinking and burning of British ships; the burning of military stores, warehouses, coaling stations, conspiracy, and the falsification of Admiralty documents. デュケインはメキシコや欧州での逃亡生活を経て、1926年にはフランク・デュ・トラフォード・クラヴェン(Frank de Trafford Craven)という新たな身分でニューヨークへと戻ってきた。彼はジョセフ・P・ケネディが所有していた映画会社FBO映画社(英語版)、後にはRKO映画社にて宣伝担当の職に付いた。その後、宣伝担当の業務の一環として彼は既に本名「フリッツ・デュケイン」が知れ渡っていたマンハッタンに移り住んだ。1930年、クイグリー出版社(Quigley Publishing Company)に入社して映画雑誌の編集長となる。この頃は「クラヴェン少佐」(Major Craven)を名乗っていた。 1932年5月23日、警察はニューヨークのクイグリー社のビル内にてデュケインを逮捕した。彼は公海上での殺人について起訴を受け、また警察による取り調べの際には暴行を受けたという。デュケインはこの逮捕は完全な人違いであって、自分は本当にクラヴェン少佐なのだと主張した。警察ではクラヴェンを自称する男の身元を確かめる為、当時デュケインの伝記『The Man Who Killed Kitchener』を発表したばかりだったクレメント・ウッドに確認を依頼した。 ウッドは彼はデュケインではないし、またクラヴェンは5年来の友人なのだと主張した。警察はウッドの主張を信用せず、1917年のデュケイン逮捕に関与したFBI捜査官トーマス・J・タニーに改めて確認を依頼し、これによってクラヴェンとデュケインが同一人物と識別された。デュケインは殺人および脱獄に関して起訴された。彼の弁護に当たったのは進化論裁判に参加したことで知られるアーサー・ガーフィールド・ヘイズ(英語版)であった。イギリスが時効満了を理由に戦争犯罪に関する訴追を断念した後、残されていた脱獄に関する起訴も裁判の中で退けられ、間もなくしてデュケインは釈放された。 釈放後もデュケインはクイグリー社で働いており、彼は船舶の爆破に使用した方法について語った。このエピソードの真偽を確かめようとクイグリー社はデュケインを何人かの専門家と面談させた。例えばそれはイエズス会の広報誌『America』の編集者でもあったウィルフリード・パーソンズ神父(Wilfrid Parsons)である。こうした専門家らはデュケインの言葉を検証しようと試みた。そして、彼らは「時系列に不正確な点があったが、それ以外の点ではデュケインの言葉に間違いはないと確認された」とクイグリー社へと報告した。 1934年春、デュケインは在米親独派組織「76の騎士団」(Order of 76)の諜報員となり、1935年1月には公共事業促進局での職を得る。ドイツ国防軍情報部長のヴィルヘルム・カナリス提督は第一次世界大戦での戦功からデュケインの名を耳にしており、米本土作戦主任のニコラウス・リッター大佐に対してデュケインとの接触を命じた。リッターは1931年からデュケインと友人関係にあり、彼らは1937年12月3日にニューヨークにて再開した。リッターは米国内で何人かのエージェントを雇用しており、その中でも有名なのがノルデン爆撃照準器の青写真を入手したハーマン・ラングである。また、後にFBIの二重スパイと判明するウィリアム・G・セボルド(英語版)を雇用したのもリッターであった。1940年2月8日、リッターはセボルドにハリー・ソーヤー(Harry Sawyer)の偽名でニューヨークに潜入し、ドイツ本国との通信網を確立する為に短波無線局を設置するように命じた。また、セボルドは潜入中のエージェント、コードネーム・ダン(DUNN)、すなわちフリッツ・デュケインにコードネーム・トランプ(TRAMP)という名前で接触せよとの命令も受けていた。
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